福山雅治を愛すべきいくつかの理由のうち、たったひとつ

 マツコ・デラックスはフジテレビの深夜番組『マツコの部屋』で拝見して以来の視聴である。「制作会社の者です」と臆面もなく言い放ち、しかし、番組が進むにつれてファッションがいかにも一般大衆の喜びそうなそれに近づきつつも、妻子ある身で自宅バレをも辞さない奇妙な男気を持つ池田Dとの掛け合いが刺激的だった『マツコの部屋』を鑑みれば、昨今の彼(彼女)の八面六臂ぶりには驚かされるばかりである。
 今回は『巷の街を徘徊する』という、マツコの俗物視点(これは彼(彼女)の最大にして最高の視座なのだが、その小説は次回以降に譲りたい)が存分に生かされた地上波(!)テレビ番組において、かの福山雅治を迎えて神田周辺を徘徊するという内容。しかも筆者はたまたまテレビを点けて、途中から視聴し、しかも途中で切るという体たらくながらも、古書店においてバックナンバーの『BOMB!』を眺めつつ感想を漏らす福山氏に自身の感覚を呼び覚まされたゆえの筆を執る、というよりはキーボードを打つ所存である。
 彼の人となりを、ラジオやテレビだけで感じ取った、言い換えれば、一般大衆と芸能人とを分け隔てるべく存在する境界を経て介した、きわめてマスメディアの偏向甚だしい彼の虚像を一般大衆向けのマスメディアを通じて感じ取った『福山雅治』なる人物像と番組を経た彼の人物像とを照合させた結果、あまり相違がないところにある種の喜びを感じたのだ。ラジオにおいて「もしもし?」「ましゃましゃ!」というやり取りを律儀にこなす福山氏(以下『ましゃ』)、もしくは桑田佳祐がエッセイにおいて「このエロ男爵!」と頭をはたけるましゃと、2016年8月現在のましゃとがバシッと一致したことに端を発する嬉しさをここに表したいのだ。
 彼はこのテレビ番組において、好きだった、憧れてたことをやりたいだけやるには、ある程度の社会的、経済的余裕が必要であると説き、同時に、社会的、経済的余裕を取っ払って好きな、やりたいことをやってる連中に敗北感を覚えるという発言に、筆者は共感したのだ。長崎駅に向かえば、プラットフォームの至ることろにそのお姿と歌詞とが刻されている彼でさえ、そんな心境を訴えるという真実に、自身のくだらなさを覚えている次第である。当然と言えば当然なのだが趣味としてこんな一銭にもならない駄文を世界に発信する作業をジンの酔いとともに繰り広げている人間こそ筆者であり、駄文を垂れ流せば満足する人間ゆえ、それを糧にできれば世話はないものの、やりたくもない作業に埋没して糊口を凌いでいる立場に、ましゃとの蜘蛛の糸に匹敵するという表現さえ憚られる親近感を覚えるのだ。
 つまり、彼の魅力とは、自分の立場を「夢追い人」と同じに置きつつも、ある程度の社会的、ならびに経済的成功を体現し、しかもその功績を「自身の夢とは相いれない」と喝破する点にある。筆者自身も、その「夢追い人」の一員なのだが、先に述べた社会的、経済的に成功していないゆえにましゃの生きざまには憧憬と納得のないまぜになった感覚を受け取ったような気分になるのだ。憧憬に納得とは、鬼に金棒、梅に鶯、ディランにアコギってな無双ぶりを発揮するエレメントである。それはマツコ・デラックスの「そりゃみんな好きになるわ」なる発言に一切が集約されており、自身もその『一切』に含まれていることを否定しない。

 今回は以上です。