「短編」の巻

 昨晩の「世にも奇妙な物語」は超短編が秀逸だった。そもそもこの番組自体がショートフィルムの集合みたいなものなのだが、さらに短い、10秒〜30秒程度のものである。このショートフィルムというジャンルはその(作る側、観る側双方における)手軽さから現在でもさまざまの場面で作品が展開されている。わたし自身も飽きっぽい性格なのでさらっと楽しめる超短編は好きなほうだ。TVCFも面白い。というよりショートフィルムが最も身近な形で現れたものだと定義している。クリス・カニンガムの作品集に収められたCFはどれも秀逸で、秒単位ながら一挙に情報を与える作品たちだった。それは文学においても同様である。落語に触れたときも小噺を多く読んでいた記憶があるし、物心ついたときには我が家に置いてある、外国の小噺を集めた「ポケット・ジョーク」という文庫本を現在でも何の気なしに本棚から取り出すことがある。
 国内外を問わずファンの多い「超短編作品」であるが、こうした短い作品こそ日本人のお家芸であるように考える。それを証拠付けるのが俳句の存在だ。三十一文字の短歌から多人数で連作する連歌俳諧、そして現在の主流である蕉風俳諧の俳句、という千年以上にわたる超短編の歴史が日本にはある。定型で僅か十七拍というこの文学はおそらくジャンルとしては世界でも類を見ない短さを誇るだろう。もともとは長編作品の一部であった句を切り取って、独立したジャンルを構築するという発想も文学においては稀である。短さの美学、とでも表現しようか。きっと啄木が短歌のレイアウトにまでこだわりを見せたのもここにあるのかもしれない。
 この美学がどこに由来するのかというと命の儚さではないだろうか。季節があり、それぞれにある終わりを日本に住む人は嫌でも感じなければならない。寒さが和らげばそれは冬の終わりであり、葉が色づけば夏が終わる。熱帯や寒帯では感じることのないだろう終わりと、それに対応する術が受け継がれてきた。起点と終点をはっきりと覚えるがためにそれを記憶とし、また、記憶とするがゆえにその短さを想う。こうした無常観が日本人を短編作品へと導いたのではないか。冬の終わりを感じながらこのように考えた次第である。

 今回は以上です。