映画『ジョーカー』は害悪である。

 YouTubeでうっかり予告編を観てしまったがゆえに、映画『ジョーカー』に時間を割くはめになった。面白かった。二日分の食費を投じて、バターとトウモロコシの焦げた臭気の漂う空間に2時間縛りつけられたことを差し引いても高評価を差し上げたい……しかし、手放しで礼賛してもよいものだろうか、という発想が脳裏をかすめた。ポップコーンとコーラの残骸をゴミ箱へうやうやしく埋葬する葬列に加わることの不本意に対するいらだちが天邪鬼な自分を呼び覚ましたのは間違いないだろう。しかし、そんな己のへそ曲がりを加味しても、やはり僕はこの映画を「善い映画」だとするのには抵抗があった。そのもやもやを身の及ぶかぎり言語化してみたい。

 まずは表面的な話から。ペニー・フレック役のフランセス・コンロイの存在感に圧倒された。その痩身は、人生から実りを得たどころか、人生に身体を削り取られたかのようだ。一目でろくでもない人生を送ってきたとわかる、とも書ける。何が素晴らしいって、ろくでもない人生ゆえの性根の腐りっぷりを反省するどころか、息子に甘えて、未練と自己憐憫とを存分に貪っている点だ。ここで息子を思いやってしまっては、アーサーの愛憎のバランスが愛に傾く。母親に対する愛と憎しみとの絶妙なバランスを保っているのは、息子を顧みずに自己愛に耽溺する彼女との同居に他ならない。アーサーを間接的に束縛していた過去と、直接的に束縛している現在、ならびにその虐待に対する無自覚(あるいは自覚していながらのネグレクト)が、彼女の最期における明確な論拠として確立されている。また、「愛」の面においても彼女の存在は機能していた。アーサーがゴッサムを離れなかった、もしくは離れられなかった要因のひとつに彼女の存在がある。そして、その苛立ちの肥大はゴッサム・シティ全体の苛立ちと調和する。彼女の最期を僕が観たとき、残酷さに目を背けるどころか腰を浮かせてしまった。それは精神的・物理的双方の「親離れ」を目撃したことへの興奮があったのかもしれない。


 ある程度「アメリカ映画」なるものを観かじった(『聞きかじった』の類義語だと飲んでくれるとありがたい)人間であるならば、『タクシー・ドライバー』に行き着くのは理と言えよう。アーサー・フレックがテレビスタジオで胸の内を吐露する、あの終盤のドラマに行き着く以前に、その理は自然に僕らの裡に浸透していくはずである。端的に言えば、色彩だ。あの印象的な青だ。『タクシー・ドライバー』では赤が胸中の苛立ちを暗示していた。赤はパワーの色だ。鬱屈に対して、一瞬だけ、一度だけでも……という心持ちが見え透く。しかるに、アーサーの心には青が住み着いている。Blues、悲哀、だ(児戯にも等しい言葉遊びだが)。その色彩は、一矢報いてやろうという意志さえ夢物語へ降下するという、現実に裏切られ、うちひしがれた者の心持ちを雄弁に物語る。スクリーンから青が消え失せたとき、観客は物語の転換を感じる。なんという丁寧さ。なんという優しさ(あるいは『易しさ』)。そしてテレビスタジオと司会者。観客は『タクシー・ドライバー』の連想を答え合わせのように受け入れる。「ああ、やっぱりね」、そんな安堵と己の洞察の正当性に身を投じ、「自分はこの作品の主題を理解したぞ!」という独善的かつ飛躍的な安心に包まれる。僕も視聴していたときは、そんな野狐禅的陶酔のなかにいた。


 誰もが納得できる意見を言えば、これは敗者の物語だ。生まれた瞬間に、同世代から20ゲームくらい突き放されているような。ブルース・ウェインに対峙したアーサーは何を見たのだろう。20ゲームどころか、そもそも同じ競技をしているのかさえ疑問に思ったはずだ。ゆえに、アーサー、もしくは善良市民の衰退ならびに滅亡に観客が自身を重ねるには、年齢が絶対尺度として君臨する。幸福や達成感を手に入れるのには場数こそ必要だが、年齢は関係ない。一方で、失敗や失望は自分の残り時間を思い知って、初めて実感される。失敗は、実はそれほどメンタルに影響しない(失敗を引きずってメンタルを病むのは自傷行為、ないしは自慰行為に相当する)。失敗を修復・挽回しようとして、そのリカバリの時間が自分には十分に与えられていないと思い知ったときに、人は失望する。帳消しにできない失敗などない。どんなミスだっていくらでも挽回できる……しかし、それは時間があればの話だ。アーサーは自身にその余裕がないとわかっていた。少年たちに抵抗したって、その体力に歴然たる差があり、自分にはその挽回が不可能だと悟ったから、路地裏でただ痛めつけられたのだ。長くなったが、アーサーへの理解は観客の年齢に準ずる。


 ここで不遜な提案をしてみよう。本作品には鑑賞において30歳の年齢制限を設けるべきだ。明るい未来を夢見ている、これから自分の人生に何が待っているのだろうという期待と不安との為せる興奮とを意識的にせよ無意識的にせよ味わうことができ、自分が明日、路上での生活を余儀なくされるだろうなどとつゆほども考えないだろう10代、20代にこの映画を見せても何も感じないだろう。ここで重要なのは「感じない」ことが絶対的善である点だ。若者がこの映画を観て、ひとつも共感・理解できないことは、彼らが健全かつ平穏な社会に生活していることの証左だからだ。絵画や音楽、映画なるものは人間による創作ゆえに、作者の生きている時代を反映せざるを得ない。ましてや、創作された時代にその作品が賞賛を浴びることは、その時代の一端を描けているからに他ならない。僕らは『独裁者』をナンセンスだと笑い飛ばさねばならない。あんなものはスクリーン上の絵空事だと。そうでないならば、現代を映し画く存在として『独裁者』が機能しているという真実が浮かび上がる。前述の『ジョーカー』を「善い映画」とできない論拠は、まさにこの点に集約される。


 経済格差や、行政の機能不全に蝕まれているゴッサム・シティがジョーカーを生んだように、僕らの呼吸している現在が本作品を完成させたことを、僕らはもう一度確認しなければならない。そして、それが名誉ある賞を受けてしまったこと、経済的成功を収めているだろうことが何を表すのかを考えなければならない。燃え上がるパトカーの上で喝采を浴びせるピエロマスクの群れは、まさに本作を鑑賞している映画館内の僕らと重なるのだ。これほどまでにスクリーンの内と外との境界を歪めてしまうと、むしろ僕らが作品に取り込まれることを危惧しなければなるまい。テレビショウにおいて、アーサーは自身と向き合ってしまった。自らがどんな生活を歩んできたのかを思い返してしまった。あなたはどうだろう。この映画を観て、自身を顧みなかっただろうか。顧みた人は、ジョーカーになれる素質を持っている。そしてその事実を喜ぶべきかどうか、僕にはわからない。確かなのは、テレビショウを観た人々の一部がピエロマスクを身につけて街へ躍り出たということ、ならびにその人々が「一部」であるということだ。


 ジョーカーはなぜ悪なのか。それは殺人を犯したからだけにとどまらない。彼がゴッサムの人々に希望を持たせたからだ。ゴッサムは社会への不満や嫌悪でたぷたぷになった水風船のようなものだった。ジョーカーは証券マンを殺すことによって、あるいはブラウン管を通して、「破裂させられるかもしれない」という希望を持たせてしまった。現代は拡散の容易な時代である。本作に描かれた時代でさえ、たった一週間で車両いっぱいのピエロを生み出した。とはいえ人々には偶像だったことだろう。ピエロマスクの快楽殺人という、漫画の題材にもならない事件。しかし、彼は実在した。自分の部屋のテレビで、彼が話しているのを見た。彼は自分と同じような苦悩を抱えて生きてきて、それを打破する方法とその容易さを具体的に示してくれた。希望は実在する。それまで地べたを這うようにして生きてきたがゆえに、希望とは縁遠かった人々にとって、その事実がいかに甘美であったかは語るまでもない。そしてピエロマスクは僕らそのものだ。作中の登場人物たるジョーカーの役割は、作品そのものが担っている。あなたは二重の『ジョーカー』に対面する。そのとき、あなたは本作を絵空事として笑い飛ばせるだろうか。想像と現実との混濁に飲み込まれ、あなたは想像で現実を上書きしてしまう危険はないだろうか。ちょうどコメディショウに出演していたときのジョーカーのように。
 以上のことから、映画『ジョーカー』は害悪である。