われわれは何と闘っているのか

土中🆂🅴🅼🅸さんはTwitterを使っています: 「この問題で「樋口円香はこんな笑顔しない」って解釈の問題で正解したの笑ってしまった https://t.co/7i1nEk8qwP」 / Twitter

 

 まずは上のツイートを参照されたい。僕のような中年がこのような言質に触れたならば真っ先に「飛影はそんなこと言わない」という20年以上前のミームを想起することだろう。そこにはいわばヲタク連中の必死さを笑うような兆候があったが、僕には異なる印象を残した。とはいえ、それは印象でしかなく思考に繋がらなかったのだが、今回、上のような発言によってようやく言語化できそうなので記しておく。つまり、僕らは創作に必然性を求めざるを得ない、ということだ。それは絵画、音楽、演劇、あるいは料理だったり便利グッズだったり。人為による「もの」すべてをここでは「創作」と呼ぶことにする。

 必然性はあらゆる創作に不可欠である。論理がちぐはぐなものは創作ではない。こんなことを書くと「シュールレアリズムはどうなんだ」などという軽佻にして浮薄な意見が出てくる。まずはそれにあたる日本語を確かめてみるといい。「超現実」である。「超現実」は絶対に現実性を保持しなければならない。「現実をひとっ飛びに超える」という行動には、まず「超えるべき現実」が存在しなければならない。ハードル走は飛び超えられるべきハードルが存在して初めて競技として成立するのだ。あのレーンからハードルを取り払った姿を想像してみると、なんとも間抜けに見えるのはこの理由による。

 ダリはその作品において時計を軟化させた。そこには「時計でなければならない」という必然が存在する。「時計」という日常的に「硬さ」を持った物体を題材にしなければ、ゆがませて描かれたところで、それはダリの独創性を表現しない。マグリットの作品において中空に浮かぶのは絶対に石でなければならない。「石」という「堅さ」「重さ」の象徴を浮遊させるからこそ、超現実としての色彩を持つ。ピカソの『泣く女』は必然性の最たる作品だ。あの色合いは「泣く」という時間的要素が介在する動作について、そこから時間性をはぎ取り、刻刻における要素を「絵画」という手法で一気に表わしてしまったら、ああなったに過ぎない。泣くという行為には激情がある。頰が紅潮する。そして大事な人を失ったゆえに顔面が蒼白となる。しかし厳かな「見送り」の場においてワンワン泣くわけにはいかない。だから怺える。それでも愛する者をなくした悲しみは涙となって溢れくる。鼻の頭にしわが寄る。歯を食いしばる。これらが実存においては時間的差異をもって次々に顕在化されるのだが、ピカソはそれを同時刻的に表現してしまった。「映像」というメディアがまだメジャーでなかったゆえに、「映像」で理解される事象を「絵画」という手法で表現した結果、あのような色彩と構図に至った、というだけである。

 僕らは必然性の喪失に違和感を覚える。蛇に本質的なおぞましさを覚えるのは、僕ら自身の必然性である、四肢の概念がごっそり剥ぎ取られているからだ。先天的に四肢のいずれか、あるいはすべてを持たない人々に対して、僕らはこのようなおぞましさを感じない。なぜなら、そこには「持たない」ことへの理由と知識と理解とがあるからだ。理由と知識と理解は必然性を保証する。ただ、蛇やナメクジが四肢を持たないのは「そういうもの」という、理由と知識と理解とを超越した概念による。だから不気味なのである。

 「飛影はそんなこと言わない」も同様、必然性の欠如に対する嫌悪を根底とした、人間全体における創作物に対する認識の一例だ。ベルクソンは笑いの発生源を、硬直に訪れる緩和であると論じた。これも必然性の結果である。笑いの基本は予想の裏切りにあり、一言で表わせば「なんでやねん」である。この構造をまさか2022年になってあらためて想起させられ、仕事終わりだというのに1630字も書く羽目になってしまった。とはういえ、ここに後悔はない。インスパイアは何らかの形で表出するものだ。これもまた必然性である。