「one step closer to the edge」の巻

 「マザー2」を本日クリア。もう何回目になるか忘れてしまったが、いつもその芸の細かさに唸ったり台詞の一言一言が身にしみたりする。言い換えれば、喜びや悲しみが的確にこちらへやってくるのだ。それは恐怖も然りである。その最たるはラスボス、ギーグの台詞であろう。これだけは何度観ても気分が悪くなるというか顔を背けたくなる。「痛い」という言葉がここまで痛みを持っているものか、と痛感する。あの台詞はプロデューサーである糸井重里氏がスタッフに、自らが無作為に呟いた言葉を書きとめてもらったものをランダム再生しているのだという。書きとめた人が読み返してみたところ、何らかの事情により絶句したという。左脳をセーブして吐き出される「言葉」、逆に言えば右脳的言語とは狂気の淵を覗くことが出来る数少ない手段のうちのひとつなのかもしれない。
 ハービー・ハンコック「Rock it」のヴィデオ・クリップもまたその一例である。ひたすらに前衛的な映像を撮ろうとしたのだが、製作者の脳内にあるイメージと現実の折り合い(撮影技術や特殊効果など)がつかずにああして表層化してしまったのだろうけれども、それはフィルム自体の劣化と相俟ってきわめて不気味な代物になってしまった。冷蔵庫の中にあるもので旨いものを作れる人が居るが、それに近いものがある。
 思うに、考えていることを形として成立させるためにはフィルターが必要なのだと思う。糸井氏は自身で言葉を考えて書くのではなく、発声して記録させるという間接的なプログラミングによってあの台詞と空気とを作った。もちろん、頭の中になったイメージとはかけ離れていただろう。けれども、そのイメージと実際の作品とはきっと同じ「雰囲気」を持っていた。ゆえに彼はゴーサインを出したのだ。「Rock it」も同様である。エレクロニクスという新機材を用いた音楽に、映像作家もまた視覚的尖鋭さを添えたかった。けれども、当時の技術では彼の理想形を具現化するのは不可能だった。それでも彼は尖鋭的という空気だけは表層化させることが出来たのだ。ここでは「技術の乏しさ」がフィルターとなっている。この乏しさがゆえにあのヤバさが生まれたのである。この事象は決して他人事ではない。わたしも、文字を打ってから自らの意見を了解するということが頻繁にあるのだ。一応、頭の中で単語や文は浮かんでいるのだが、それを日本語として、「言葉」として成立させるためにキーボードと指先というフィルターを使う。書いていくうちに自分でも思いも寄らない方向に論が展開することもあるが、それもまた面白く、同時に、往々にして頭でイメージしていたものより深化している。障壁は、時として濾紙にもなりえるのだ。「純化を妨げる」として厭うのは実に勿体ないことである。

 今回は以上です。