「我が名は」の巻

 わたしはファーストネームで呼ばれることを大いに嫌う。物心ついたときから、訳もなく嫌っていた。年上なら許すが、同年代だとやや癪に障る。外国人にすら、わたしは「名」で呼ばれたくない(何故ああも彼らは苗字で呼びたがらないのだろうか)。苗字が発音しづらい(当人ですら痛感している)うえに、世間ではまず目にしないものであるのに対し、下の名があまりに一般的で、それこそ小学校の算数の教科書における文章題の中にすら見つけられるほど一般的であるがゆえなのだろうが、とにかく理由がわからないまま虫酸が走るのである。大学で何かのサークルに一時期所属していたが、そこでも名前で呼ばれ、不快な気分を味わった(結局一ヶ月で脱退したが)。
 何がそうもわたしを「嫌わせる」のだろう、とは思っていた。過去の記憶を辿ってみても、どうもファーストネーム云々で喧嘩になったことはない。ただ「名前で呼ばれるのが嫌い」と公言したがゆえに囃されるのに用いられたことがあるだけだ。単純に馴れ馴れしくて嫌なのかもしれないが、それだと幼少期より厭い続けてきた理由がわからない。別に名前をそれほど大事だとは思っていない。代々のしきたりにそって名づけられたようだが、伝統的束縛は好まない性質なので、嫌う理由には該当するまい。
 が、最近なんとなく理由がわかったような気がする。それは中国の名前の形式になった。「名」「字」「号」「諡」というやつである。日本人は「名」しか持ち得ないが、「名」とは生まれたときにつけられ、かつ、呼ぶことが許されるのは親、あるいは師や友人に限られるという。我が意を得たりといった塩梅だ。確かに、親や師と仰ぐ人や親しい友人になら抵抗は感じない。どうやら「名」はわたしにとってプライドの一部を形成しているらしい。どこにでもある名だが、ゆえにその差別化を強く望んで誇りとしていたのかもしれない。
 目下わたしが、わたしを「名」で呼ぶことを許しているのは親や親戚とバイト先の上司、そしてわたしの20年来の友人とその家族だけである。