「読書のススメ」の巻

 価値ある本とは何か。これは結局すべての本がかつては「現代文」であったことを想起すれば簡単に定義できる。すなわち当時の世相を反映した本である。漱石の『こゝろ』に何故価値があるのか。それは「愛」という概念の日本における在り方を描いているからだ。そもそも日本に「愛」という概念は存在しなかった。文明開化以降の輸入品である。しかし「恋」はあった。「恋」と「愛」は「恋愛」という単語があるように非常に似ていて、かつ非なるものだ。芥川が「恋とは性欲の詩的表現である」と言ったが、実にそのとおりで、語源が「乞ふ」であることからもわかるように欲求の一種である。端的に言えば見返りが存在すべきなのだ。一方、「愛」に見返りはない。惜しみなく与え奪うもので、無条件の贈与と剥奪とに終始する。極言すれば「愛」は感情ではないのだ。このところを『こゝろ』は丁寧に描写する。愛そうとしても結局恋することしかできなかったその居たたまれなさ、それは世界という未曾有の存在を受けいれざるを得なくなったことへの混乱に準えられる。それは渡英した際の漱石の姿とも重なるものだ。
 話を戻そう。「良い」本とはその時代と密接な連関を持った、あるいは持たざるを得なかった本である。それが論説文だけに留まらないことは先に示したとおりだ。現在においては、おそらく明治期の本が「良い」カテゴリに入ると考える。それは明治と現代とが「世界の縮小」という点において酷似しているからだ。開国は世界という遥かな存在を日本に与えた。それは文化や技術であったりとさまざまだが、それは世界感覚というイメージの総体だった。端的に言えば、日本はそのとき地球を包括し始めたのである。翻って現代。とかくにインフォメイション・テクノロジの日進月歩は日進月「走」とも言うべき加速度を持つ。それは紛れもなく世界を「個人」が把握しえることに他ならない。ワールドワイドなコミュニケーションを瞬時に行えるのだから。つまり、明治期の文章が現代の我々を言い表し得る可能性が非常に高いのである。「global」という単語が流行して久しいが、その概念を最初に得た日本人の姿を再確認すること、それが現代の在るべき読書ではないか。

 今回は以上です。