「反・読書論」の巻

 2005年度の東京大学の現代文を読んできた(一問目の『哲学入門』)のだが、実に陳腐というか高校生くらいならこの程度なのだろうという意味で非常に失望した。現代文と称されるジャンルに属するものは結局「現代」という存在を様々な方法で切ったその側面でしかないので一皮剥けば変わり映えしないのが難点だが、それだけにその切り方や切り口の鮮やかさが文章の、そしてその筆者の価値すべてを担うとしても過言ではない。試験に採用するのだから模範解答が作りやすくあるべきだというのはわかっているのだが、やはり文章そのもののレヴェルが低いとしか思えない。それも少子化の影響だろうか。
 水準の低い文章の引き起こす弊害、殊に試験問題なんかに採られる場合の最大は読んだ者への自惚れである。自惚れは怠惰を呼び、向上心や知識の低下を促す。学生という身分は自身のあるべき形を模索し、その指針に向かって切磋琢磨する時期であると思う。その時期に彼らを自惚れさせてはいけない。酷評を下すか、ろくに読めそうもない文章を読ませるべきだろう。むやみやたらと「本を読め」と連呼しても仕方ない。わたしの父は事あるごとにわたしに「本を読め」と繰り返してきたが、果たして彼の「読書暦」を訊くと五木寛之の話をしてくれた。読書経験を尋ねられて五木寛之を引き合いに出されたのでは脱力もいいところである。
 一方、自身を鑑みればやはり乏しいと言わざるを得ない。小学生の時分には海外文学、しかも『鏡の国のアリス』とか『宝島』とかメルヘン志向なものばかりに没頭していて日本文学には目もくれなかったし、20歳を過ぎてからようやくシェイクスピアを読み始めるという始末である。だいたい、週に4日間バイトに入っている人間が一ヶ月そこらで書いたレポートがA判定を貰えるようでは甘すぎるのだ。気長に文学なんぞやっているほど世界は緩慢でないために、就職のことを念頭に置くのも当然結構なことだが、やはり属する学科はある程度究めるべきだと考える。
 それと本日は、ある岩波文庫の本を探し廻ったのだが、どこも岩波の扱いがえらく矮小なことに驚嘆した。岩波自体を扱っていないという店さえあった。別に新潮や角川が悪いとは言わないが、岩波でしか手に入らない書籍というのもある、というか、そもそも岩波文庫が書籍としていかなる立場にあるのかを市内の書店は把握しているのか、そこが争点である。ふと盛況そうな売り場に目をやれば、芸能人が書いたエセーだの芥川賞作品だのが積まれている。その新刊単行本一冊で世界的な名作が二冊手に入るのだが、これはとりあえず個人の価値なのでハンケチをかみ締める程度に留めておこう。
 現代において、いよいよ読書は軽薄化しているように思われる。