「ブービートラップ」の巻

 映画「SAW2」を観る。前作が良かったのでこっちは正直期待していなかった、つまりハリウッドお得意の「二匹目のドジョウ作戦」だと踏んでいたのだが土下座したくなるほど面白かった。物語が二転三転して観ているものが裏切られるのも爽快だけど、それ以上に登場人物の殺し方が凝っていてよろしい。娯楽作品の中で人を殺す場合はかならず極端でなければ面白みが失せる。つまり、人間性に溢れているか、冷血そのものかだ。「SAW2」は後者に属する。登場人物はすべからくギミックによって殺されるのだ。それが良い。前作でもテグスに足を引っ掛けたところを、ショットガンで脳天を打ち抜かれていた(しかしゲリラの基本戦術にひっかかるとは……)が、今回も負けず劣らず素晴らしい殺しっぷりである。序盤で使われたギミックがかの有名な拷問道具「鉄の処女」を髣髴とさせることにニヤリとさせられ、同時にサディスティックな悦びが湧き上がる。「ハエトリ草みたいなものだ」という台詞が、ハエトリソウの英名「Venus Fry Trap」とかかっているのも見逃せない。
 映画の主人公ともいえる殺人犯「ジグソウ」の意図は映画の中で、彼自身の言葉というもっともわかりやすい形式で描かれる。つまり、人々の「生」に対する無関心を暴くことだ。生が明確に人の心理に現れる状況のひとつが「死」である。死によって生は浮き彫りにされる。人間は得てして失わないと存在の価値に気付かないものだ。彼は無頓着な人々をして「コップ一杯の水の美味さもわからない」と言う。彼自身はどうかというと生を実感しうる人間のひとりである。末期癌なのだ。落語「死に神」で、寿命の象徴として蝋燭が登場し、主人公は自身のそれを目の当たりにしその短さに戦くのだが、末期癌であることの宣告もそれとほぼ同様なのだろう。
 このことはわれわれにも遠い世界の話ではない。生きていることへの無頓着とは、言い換えれば平和ボケであるからだ。思えば「SAW2」で罠にかかって殺された人間のほとんどが安直に行動していた。神経毒がまわっているのは確かに原因だろうが、「ジグソウ」というシリアルキラーの存在を知っているにも関わらず、その手口にかかってしまうのは平和ボケしていると考えても差し支えない。紙面やブラウン管の中の出来事と現実とをリンクさせていないのである。「罠が仕掛けられている」というヒントが与えられているはずなのに、罠にかかる。情報を情報として処理できていない。水は蛇口をひねれば出てくるものだと考えている。結果だけを見て、その過程とそこにおける数々の労苦を視野に入れない。つまり、思考の停止だ。形而上ロボトミーだ。これをわれわれは必ず避けなければならない。ともすれば徴兵制が復活する可能性も否定できないからだ。ブロイラーに成り下がってはいけない。
 たまには非現実を鑑賞して現実にフィードバックさせるのもいいものである。

 今回は以上です。