「過不足」の巻

 まず、反意語という語彙を分析してみたい。恥ずかしながらわたしはこの語彙はここが初見なのだが、要するに「意味が相反する」ということだろう。「対になっている」のではない。具体例を挙げれば、「北」の対は「南」だが、「北」の反意語は(深い意味では)存在しない、ということになる。以上を踏まえて。
 「知識」と「情報」とが反意語同士である、ということは言い換えれば双方がある次元において相反する要素を持っているということだ。いかなる次元かというと、データとしての質である。「知識」とは自家薬籠の中にあるデータであり、「情報」は外部から取り入れたデータでしかないのだ。文字の点からも推察できる。前者は「知る(識る)」という能動的アクションによって形成されるが、後者は「報せられる」という受動性によるところが大きい。
 察するに、昨今では「情報」の占める割合が多くなっているのではないか。端的に言えば受け売りであり、右から左である。情報高度化社会とは畢竟、情報を消化し知識へ昇華させることなく頭を通過させてしまう社会であるといえよう。われわれは今日、さまざまの媒介によってデータを受け取るが、そのほとんどが受動的ではなかったか。江戸時代までは、データを仕入れるには立て札へ出向かなければならなかったし、70年代までテレヴィジョンは街頭で観るものだった。翻って現在では、ニューステレビ番組が日がな一日放映されているし、一人一台の勢いでその名の通りパーソナルコンピュータが普及しており、大手プロバイダのサイトにはニュースのコンテンツが常備されている。機械を起動するのと同時に、わたしたちはニュースに対面しなければならない、という事態は決して珍しくない。その受動性ゆえにデータを取り入れるモティヴェイションは低下し、情報にさして興味を示さない。にも関わらず、情報が流し込まれることには抵抗しない。当然である。ニュースを「見る」と、人は往々にして「知った」と錯覚する。その錯覚は少なからぬ優越感となるからだ。
 閑話休題。つまり、「知識」の反意語は「情報」であり、その所以は同じデータという存在でありながら、その質は正反対の要素を持つからである。

 今回は以上です。