「We can't be perfect,but...」の巻

 映画「マトリックス・リローデッド」において、システム「マトリックス」の創造主である「設計者」はその構築における苦悩の理由として人間の不完全さを挙げている。本来であれば「数学的正確さ」を求める彼らには考えの及ばない、「完璧を求める度合いの低い知性」が苦悩を解決した(この『改良』によって被験者の99パーセントがマトリックスを受け入れたらしい)という。つまり、人間は100パーセント、一分の隙もない対象を納得しないということだろう。「不便さがいい」などという訳の分からない美学もその一例だろう。
 では「完全な不完全」に対してはどうだろうか。実は、それこそ人間が創作において目標とすべき対象である。小説が創作でありながら現実性を窺うのは、そこに不完全を見出すからに他ならない。そして、その「不完全さ」が完全に近ければ近いほど、人間は対象に心惹かれることとなる。キリスト教によれば、神は自身に似せて人間を創ったが、やはり似非であり全知全能ではなく、ゆえに神に近づくべく敬虔な信仰を怠ってはならない、というのが前提として存在するらしい。ここをもってコメニウスは教授法を論じあげたわけだが、この話はまた別の機会に。
 イッセー尾形ミドリカワ書房緑川伸一)は「完全な不完全」を描き出せる稀な存在である。彼らはいずれも「中途半端な哀しさ」でもって不完全を演出する。徹底的に悲痛な印象を受けないが、決して楽しくはない出来事を、創作へ投入している。だが、この哀しみの「小ささ」は対岸の火事だからこその小ささである。つまり、当人にしてみれば大事件であり、人生を左右しかねないことなのだ。例えばミドリカワ書房「それぞれに真実がある」では自らの不倫で家族を壊してしまった男が、娘に(ここを形容できる適当な言葉が見つからない)話をする様子を歌詞にしているのだが、当人以外にとっては実にありふれた、世間話程度のストーリーだろう。だが、娘は泣く。当然といえば当然で、悲惨といえば悲惨な話だ。しかし、やはり傍観者には「よくある話」で片付けることが充分可能な話題である。このような「小さな哀しさ」が不完全さ=現実性を増幅させている。不完全さに対するリアルな感触は、ひょっとすると人間が自身に対して不完全なるものとしてのイメージを抱き、ゆえに共感するからなのかもしれない。

 今回は以上です。