「観念論、もしくは青空の下における『イデオロギー』細見」の巻

 「ideology」という単語はしばしば(社会的、あるいは集団的な意味での)「思想」と和訳される。ここをして訳を等式と見なし、「思想」という単語の本質を探ってみたい。そもそも「ideology」とは名詞「idea」と接尾辞「logy」(あるいは『ology』)とによる複合語である。「idea」とは「考え」や「思い」、「観念」と訳されるのは今や小学生でも見当のつくことだろう。一方の「logy」であるが、こちらは「〜に関する学問」「〜に対する研究」となる。つまり「心の研究」は「psychology」(=心理学)であるし、「生物に関する学問」を「biology」(=生物学)と表記する。「星の研究」は「astrology」であり、転じて「占星術」(元来はれっきとした『天文学』だが、神話の要素などを含むクラシカルな側面も持つケースを含めて)と呼ばれる。これを「ideology」に当てはめれば「思考に関する学問」、または「観念に対する研究」とでも訳されるべきだろう。
 世の国語辞典で「思想」を調べると「見解」とか「思考」とかいうカテゴライズがなされている。確かに、世間的に「思想」といえばそういう類の存在だし、隣の誰かを捕まえて問えばそのように返ってくるだろう。だが、「ideology」なる英単語を慮ると少なからぬ違和感を覚える。それは先の「観念に関する研究」という訳との齟齬があるがゆえだ。「研究」と「見解」は似て非なるものだ。端的に表現するならば、前者は途上、後者は通過地点である。また、行動主体を考えると、「研究」には明確な対象と主体との存在があるが、「見解」はひとつの結果であるために、対象よりもその主体が色濃く存在をアピールする。
 二字熟語は構成パターンが概ね四つに分けられる。対義、同義、いずれかの字による修飾、そして主述だ。「思想」は往々にして「同義」パターンへ分類される。だがここで、「ideology」という単語をして、「修飾」へとカテゴライズしてみたい。「『想い』を思う」、言い換えれば「(自他を問わない)人の観念を思考する」という意味で「思想」という語を用いるのだ。ここをして、「思想」という熟語は紛れもなく対象(=他者)の存在を考えざるを得ない社会的、集団的な意味を含んでいて、かつ、「対象へ志向する」という研究的な要素をも持ち合わせている。また、「思想」が「同義」であると見なされるケースが多数意見である理由に関しては資本主義社会の台頭がある、とも考えられるのだが、これはまた次の機会に。
 なお、これはあくまでわたしの「解答」であり、「正解」ではないことを老婆心ながら付記して、筆を置きたい。

 今回は以上です。