「自己同一性障害」の巻

 サッカーワールドカップ・日本対オーストラリア戦を観ていた。ドーハの悲劇を再現しているかのような終盤での逆転。思わず「川口、下がって!」とテレヴィの前で叫んだところで1点が入れられ、コロコロと負けてしまった。さて、今回の話題はそれより前の話である。試合前に都内某所のクラブだかバーだか写し出されたのだが、なぜかサポーターが「AIDA」を大合唱していた。「AIDA」といえばイタリアはパルマに本拠地を置くパルマFCの応援歌である。しかし中田英寿が在籍していたのは三年も前であり、前回のワールドカップならまだ理解できるが、なぜ今「AIDA」なのか。思い返せば、2002年以降、至るところで聞いたような気がする。堂々としたメロディラインは確かに鼓舞させる雰囲気を醸しているが、この期に及んでなぜ……という感は拭えない。しかし、「それでこそ日本人」と思いなおすことにした。そもそも日本人が他国の歴史を学び文化を重んじるということ自体がありえないというかナンセンスだからだ。
 やれ渡来人だ朱印船貿易だオランダ商館だといっても、他国の文化が「文化」として日本に浸透したのはごく最近のことではなかろうか。仏教にしたって文学や文字、建築に印刷術といった技術が先行してまず輸入されたのであり、宗教そのものはおまけで広められたようなものだ。そんなものに愛着が湧くはずもなく、どんどん刷新されてきたのが日本の文化である。他国の風俗を風俗として取り入れ、比較することによって、自身の文化への愛着が生まれる。そのオリジナリティ(=価値ある理由)を知るからだ。逆を言えば、自国の文化しか知らない者がそれを大事に扱うということはまずない。珍しくもなんともなく、ゆえに機能性を追及し、取り壊して新しいものを生む。かくして日本には「すでに高度に発達してしまった」外国の文化が迎え入れられた。常に諸外国と対峙し研磨されてきたそれは、比較するまでもなく日本のレヴェルを上回っていた。そして、「比較」という過程をスキップしてただ「崇拝」するだけになった。このように、比較文化学を蔑ろにしてきた国がまともが歴史学を興せるはずはない。日本において「誰でも知っている」ような歴史学者が挙がらないのはそのためである。他国の文化に触れた際、そのバックボーンを無視しファッションとして取り入れる。「AIDA」を大合唱するサポーターたちは正に「日本人の鑑」であった。

 今回は以上です。