「サポート」の巻

 ディジュリドゥという楽器がある。ネイティヴオーストラリアンであるアボリジニの民俗楽器のなかでも比較的ポピュラーな長笛で、Roland TB-303のような捻れた音が出る。これは、シロアリによって空洞化したユーカリの木を切り取って作られる。当然、木の状態によって巣食い具合は異なるので同じ音が出る笛が存在することはまずあり得ない。
 エオリアン・ハープという楽器がある。細い胴に多くの弦を張ったもので、古代のインドや中国で作られた。日本の琴を縦置きにしたようなものと言えばイメージしやすいだろうか。しかし、演奏家はひとりしかいない。風である。エオリアン・ハープを屋外に置くとそれぞれの弦が風速や風量によって不規則的に振動し、まさに「風の鳴くような」音を出す。
 音は声より先にあった。言い換えれば、音は生物に先行した存在と同じレヴェル、あるいはそれ以上に位置している。先のディジュリドゥは現在でこそさまざまな場で演奏されるが、元をただせば儀式や祭事に用いられるべき楽器である。日本にも多くの古楽器があるが、やはり民俗あるいは宗教との連関を見逃すことは出来ない。人間は、神々と交わる際に楽器を用いてきた。もっと言えば、用いざるを得なかった。楽器とは畢竟、自然と人間との音を混ぜ合わせるものである。つまり、かつての人間は、楽器というフィルタを通して自然の力を借りて神々と交信しようしたのではないか。詠唱という手段もそのひとつであろう。声ならざる声、言い換えれば「音に特化した声」でもって人間の特徴たる「声」性を静め、霊的存在に触れようとしたのではないか。話がずれたが、つまり楽器とは人間が自然に依る際の手法のひとつであり、人間が人間以前の存在を垣間見ることの出来る装置なのだ。そしてここにおいて、楽器の存在は人間による自然への畏敬の証でもある。わたしはこの謙虚さに襟を正さずにはいられない。

 今回は以上です。