「平面性―西原理恵子による『肖像』」の巻

 このところ雑誌「ユリイカ」を読みまくっている。学内図書館で毎月新刊が読めるということもあり、バックナンバーにこそ手を出さないものの新刊が出れば手に取るようにしている。かつては「こんなの文芸誌じゃねえよ」などと敬遠していたが、なかなかどうして、である。前置きが長くなったが、今月号「西原理恵子」特集を読んだ。
 わたしにおける、彼女の作品との出会いは「まあじゃんほうろうき」である。なんちゅう平面的な絵を書く人だ、というのが第一印象だ。人物にしろ物体にしろすべてが薄っぺらい。たまに眉間にしわを寄せる程度だ(いま気付いたが、西原作品の人々は往々にして眉間にしわを寄せる)。ビデオゲームパラッパラッパー」を髣髴とさせる絵柄だ。が、それゆえに苛ついていたり楽しんでいたり頭の螺子が外れかかっていたりというのが表層に出てくるので実にわかりやすい、と考えを改めた。微細に書き込むより、半月の目と口を描いたほうが笑顔を簡単に表現できる。
 次の出会いは(誌上でも頻繁に取り上げられていたが)「ぼくんち」である。何年か経って再びお目にかかった西原理恵子によるキャラクターたちはやはりスーパーデフォルメで、単純だった。が、ゆえに事件は直接わたしに迫ってきた。構図を簡素にすると、こんなにも生々しく語られるものか、と感心し、終わる頃には心臓を握り締められたような印象がなんとなく残った。
 こちらも対抗しているわけではないが、単純に考察すると「ぼくんち」は「8mile」よりもヒップホップかもしれないという結論に達する。何せドラッグや拳銃、強姦や放火が日常的に起こる低所得者の町が舞台である。公園にはホームレスが屯し、しかもいつの間にか誰かが死んでいる。殺されたのか事故にあったのかはわからない。そのなかで環境に従いつつそれなりの知恵を身につけ、成長していく。まさにヒップホップである。こうした構図が平面的な、それこそ眼を黒丸で示してしまうような絵柄で描かれる。非現実的だが、ゆえに非現実性を取り払われる。あまりに詳細な偽者は逆に非現実的な匂いを漂わせるけれども、逆に空想的すぎるとかえって「あり得るかもしれない」と考えてしまう心理作用が人間にはある。
 デフォルメは紛れもなく「現実」の確かな反映なのだ。

 今回は以上です。