「遺物」の巻

 NHKチャップリンの特集をやっていたので「またか」と思いつつ観てしまった。しかし、米WTCビルのテロ以降、フランスでは「独裁者」を再上映(しかも週刊ランキングでは最高4位を記録)したという話は非常に興味深かったし、映像化されることのなかった脚本を紹介(直筆のラフスケッチまで)しており実際には結構面白かった。わたしの出会いは中学校の視聴コーナーで観たVHSの「独裁者」である。1940年というナチスの全盛期によくこんなものを作ってしまうものだと思った。以降、何作かを鑑賞しアクションにおける笑いは20世紀中には出尽くしてしまったような感さえあった。
 さて、番組でもやはり「独裁者」が取り上げられていたが、中でお決まりの「まったく古くなっていない」とか「今でも新鮮」とかいう文句になんとなく感じるものがあった。これらの台詞はチャップリンの作品に対するコメントには常に付随するものだし正直辟易しているがしかし事実なのでスルーするのが平生なのだが、今回は違った。つまり、彼の作品が「古びていない」というのは果たして「善いこと」なのだろうか、ということだ。
 「独裁者」は言うまでもなく独裁恐怖政治(と戦争)の愚かしさを描いたものだ。また、「モダン・タイムス」は工場性(『制』ではない)労働における人間の病理とも言うべき苦しみを表現している。これらはすべて人間によるマイナスのイメージを「笑い」という糖衣で包んだ苦い薬のようなものとわたしは認識している。そして、これらを「笑う」のは常に鑑賞する人々がその当事者(=共有的な笑い、いわゆる『あるあるネタ』)であるからに他ならない。あるいは、笑いでなくとも感動を覚えるのも然りだ。これを鑑みると「独裁者」や「モダン・タイムス」が「古びていない」というのは要するに人間におけるマイナスの側面(およびそれに発するアクション)が未だに解消されていないことの表れではないのか。チャップリンの作品が「古い」とされてこそ、人間は進歩したといえるのかもしれない。

 今回は以上です。