「ベクトル」の巻

 卒論のテーマは自我の削減、ということでヒップホップを聴いている。サンプリング(あるいはブレイクビーツ)を中心とした再構築によるこのジャンルは他人の作品を借りて成される。ゆえに削減性が高いと踏んでいるわけだ。が、何しろ金がないので家にあるものを何度もリピートさせている。アートにおいて最も面白いのは最初期と最新である。前者はGrandmaster Flash and The Furious Five、Wu-Tang ClanBeastie Boys後者はPrefuse 73Anti Pop Consortiumといったところか。これからはいずれも「雑食性」という点で大きく共通している。けれども、前者は黎明であるがゆえのいわば莫大な可能性のうえに立たされた者による試行錯誤、後者は先人が可能性を追究し消費してしまったがゆえの義務付けられた模索というようにかなりその様相は異なっている。簡単に言い換えれば「何でも取り込むことはできた」立場と「何でも取り込まざるを得ない」それという違和である。
 音楽にしろ文学にしろ、あるいは絵画、彫刻、映画などおよそ文化的活動とされるアクションのほとんどはすでに飽和しており、それこそ「何でも取り込まざるを得ない」状況に立たされているのではないだろうか。先に「後者」として挙げた二組は時折エレクトロニカ・ヒップホップと呼ばれ、いずれも英国の電子音楽レーベル「WARP」に所属するアーティストである。そもそもヒップホップは電子音楽なのだが、米国の一大ヒップホップ・レーベルの「Def Jam」からリリースせず「WARP」から。というのが興味深い。が、別にヒップホップがほかの電子音楽と結びつくのは珍しいことではない。というかやはりその黎明期にその融合を果たしたAFRIKA BAMBAATAAという男もいる。他にもアンビエントとの邂逅を果たしたトリップホップもそれに類する音楽だろう。
 現代は情報過多と呼ばれて久しく、否が応にもさまざまの媒体よりいろいろなものが流れ込んでくる。結果、われわれの話題とはそのカット・アンド・ペーストで構成されるというのが実際ではないだろうか。あるいは切り貼りしたものを並べ替え、そこから遡行し、「批評性」と獲得する。まさしく世界はヒップホップ的な様相を呈しているように考えるのだ。

 今回は以上です。