お門違い

 山口の母子殺害事件の被告人の元少年に対して高裁から死刑判決が下った件に関して書こうと思ったが、どうせ日本人の一パーセントくらいは考えてるだろうし別の視点で述べてみることにする。言い換えれば、死刑に関して。
 猟奇的で人の道に外れた罪を犯し、なおかつ刑法第39条の悪用を鑑みている被告人という構図に直面すると「死刑にすべき」と臆面もなく言い放つ人間は枚挙にいとまがない。では、彼らが死刑を執行する立場にあるとき、実行できるだろうか。わたしは日本の死刑のシステムに関して寡聞なので事実との齟齬があれば申し訳なく思うが、具体的な例を挙げれば、たとえば絞首刑だった場合に足場が外れるスイッチがあるとしてそれを作動させられるか。ならびに、作動させたあとに平静を保っていられるかということだ。わたしにはとても無理だ。軟弱と罵られてもいい。だが、死刑を執行する、もしくは直接的に手を下さないまでもその場にいることさえ自分には避けるべき事態だろう。
 この事件に関して「死刑は当然」と発言する人がいる。わたしに言わせれば彼らは畢竟ブームを追いかけているだけの、能天気な野次馬にすぎない。学業を忘れてファッション雑誌を読み漁る中高生と大差ないレヴェルの行動意識でしかない。彼らは「そういう判決が出たから」という後ろ盾のもと、良識を着飾っているのだ。懲役に就かせて国庫に奉仕させるほうが精神衛生上、ずっといいに違いない。もちろん死刑を執り行うのは堅牢な心の持ち主であろうが、彼にだって限界がないではないだろう。ましてや彼は「他人の意志で他人の命を奪うよう指示された」のである。この苦悩を鑑みずして「死刑は当然」と発言出来てしまうその愚昧さ加減には呆れを通り越して、一種の恐怖すら覚える。繰り返すが、わたしは人道とか人権とかの面で死刑を否定するのではない。ただ「自分が死刑を行う立場にいるのはとても辛くて仕方がない」という自己中心的な考えによって発言しているのだ。
 人が「〜すべきだ」と言及する際、その九分九厘において実行する人間の視座を持つことを忘れている。また「死刑の執行」は大義的に殺人行為であることもまた見落としがちである。「尊い命が奪われた」事件の犯人の「命が奪われる」ことに対して、人々があまりにも薄情というか無頓着なのは恐るべき事実であるに相違ない。なぜなら「〜なら死んでも構わない」というのは拡大すれば戦争の基本理念だからだ。はたまた、彼らは小学校で「自分がされてイヤなことは人にしてはいけません」と習わなかったのだろうか。わたしは「死刑は当然」と言い放つ人々を目にするたび、こんなことを考える。

 今回は以上です。