しょうもない

久々にライトノベル読んだ、と書くと嘘になるか。
一昨年あたりにハルヒ読んだから。
でも自分的には久々な感じがするからコメントしておきます。
タイトルは『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 幸せの背景は不幸』です。
内容に触れる部分があるので未読の方は戻ってください。
 

 
 中高生には「ケータイ小説は読むな」と言っている。理由は書けてない奴が書いたものを読んでも書けるようにならないから。「なんで国語が出来ないんだろう」と悩んでいる人のほとんどは碌な文章を読んでいない、これはある種の核心である。挨拶ができない、文章が滅裂、会話が捗らないなどすべてまともに本を読んでいないからである。また、文章は読者へ感染する要素をすべからく内蔵しており、よい文章の読者がよい文章を書き、作者あるいは著者となる。したがって悪文は淘汰されるはずなのだがやはり出版業界は経済業界であり、下手な文章でも金儲けになれば出版される。作家の全集のひとつも持っていないような連中の文が氾濫し、国語力の低下を引き起こす。中高生はそういった「読みやすい」文章を読み、まともに日本語が操れなくなる。ちなみにこれは偏差値的国語の成績とは一切関係がなく、同時により平生の問題を引き起こす。つまり、日常生活においてだ。会話ができない、語彙が少ないというのは感情の発露の大きな弊害となりひきこもったりいじめに参加(この『参加』は与える側と被る側の両方を指す)したりする。いずれにせよ、一般社会からの疎外はわたしに言わせれば往々にしてよい文章の体験が少ないからである。
 閑話休題。この作品であるが、まさにそういった箸にも棒にもかからない娯楽という評価を与えることさえ躊躇われる文章を読んだ人間が書いた文章のステレオタイプに属する。「まともな文章を読まないとこんな風に書いちゃうんですよ」という残念な結果の良質なサンプルとも換言できる。始末が悪いのはどうも作者は文学体験を(それこそ小学生に匹敵するレヴェルの)それなりにしており、その例が点在していることである。山村暮鳥のオマージュ(と書くのは暮鳥への多大なる侮辱だが、目下『無邪気で悪意のない、それだけに最悪な侮辱を込めた自称「オマージュ」』に類する単語を持ち合わせるだけの語彙を筆者が持ってないゆえ、この語を用いた次第である)はその顕著な例であろう。さらにそこそこの水準のギミックが存在する点も厭らしい。確かに題名にこめられたそれは少なからぬ痛快を筆者に与えたが、それはたとえば安酒の快感のようなものでその瞬間だけで収まって一時間とたたぬうちに猛烈な不快を感じさせる。一瞬でも快感を覚えた自分を呪いたくなるほどに。これを含めて筆者はこの作品を「コーラ的な作品」という形容で定義する。わずかな時間と量の爽快を与え、のちのちに過剰な糖分の摂取による害悪を授けてくれる。まさにコーラである。甘くて安価で子供に人気があり、ポテトチップのお供によろしいという点も合致していよう。このあとは三島でも読んで(どうせなら彼が筆者と同じ時期に書いた『仮面の告白』がいいかもしれない。偉人の同年齢の時期の作品を鑑みるのは、感性と頭脳に実に有効なカタルシスを与えてくれる)感覚を戻さねばなるまい。筆者は現在、コーラよりもガス抜きの冷たい鉱水のほうを好むのだ。