無責任男

 いわゆる就職活動(エントリーシート書くとか合説行くとか)というものをしないで現在の仕事に就いているため、昨今が就職氷河期と呼ばれている理由がよくわからない。筆者はハナから職業に対して一切の期待や楽しみを持っておらず、「夢を仕事にしたい」というおそらく就職活動中の各位が持っているであろう欲望も、やはり持ち合わせていない。筆者自身にある「楽しみ」とはきっと職業にはできない(おそらくその種の職業も探せばあるのだろうが、いかんせん面倒事を徹底的に避ける性分なので知りたくもない)と考えているし、だいたい「楽しみ」を労働にしてしまっては「楽しみ」の同一性が損なわれるとも思うからである。
 要するに、筆者は目下の職業、ならびに今後就くであろうそれについてまったく主義を持たずにこなしているということだ。それが就職に対して努力を払っていないのに食いつなげられている理由だろう。言いかえれば、筆者と同じ年齢や境遇で職探しにあぶれている人(事実、筆者の周りにもごまんといる)との差は自身の職に期待しないという特性にあるというわけだ。また、この真実は「やりたいこと」を職としたい人々の意思を軽蔑するものではないことも付け加えておくべきだろう。だが職探しの困難さはもちろん社会の絶えることない経済的下降のみならず、こうした夢の追求もあるのではないか。つまり、職業に対する期待が高すぎるせいではなかろうか。
 けれども自身の夢を職とし、それで食えている人々も多い。では彼らと職にあぶれる人々との差はどこにあるのか。それは偏に努力の差であると言わざるを得ない。「やりたいこと」を職にできた彼らの努力は間違いなく不断かつ辛苦であることは想像に難くない。わたしは問いたい。職に就けないと嘆く人々は本当に夢を追求するための努力を行なってきたのだろうか、と。そのあたりをクリアーにしてもらわないと「世の中不景気だから」と呟く人々の常套句が軽率なことばに聞こえるのだ。彼らは、本当に自らの求める職に就けるだけの努力を払ってきたのだろうか。昨今は確かに不況の下り坂(筆者はこれが「底」であるなどとつゆほども考えていない。最悪の状況とは往々にして人間の想像するそれをはるかに絶するからだ)にあり、かつてよりは就職が難しくなっているだろう。
 しかし、それでもなお夢で食っている人間はいるわけで、そこで可能と不可能とを分けるものは本人の素質以外に何があると言うのだろう。努力は就職活動にのみ類するものではない。それこそ10代のころから将来を見据えて重ねてきたか否かで努力の質は大幅に上下するだろう。大学生活における二年間、三年間程度の努力は、少年期からの追求に較べればなんと軽佻かつ浮薄なことか。「努力」と呼ぶことすらおこがましい。夢を追い求め続ける力と時間とをともに持つ者はきっと求める職に就けるだろう。外的要因に責を転嫁するのは簡単だが、やはり逃げでしかない。「不景気」だの「ブラック企業」だのと言って職にあぶれている人々は、いま一度自身を反省してみてはいかがか。あなたは、あなたの求める職に対してどれほどの情熱を持ち、また、傾けてきたのか。以上から、最近の人々(これは老若男女を問わない)の有する大きな問題のひとつは「反省の不足」ではないかと考える次第だ。氷河期は氷河期なりに生き延びていく。これは他の生物にも可能な事例である。