書評:湊かなえ『告白』

批評は往々にしてネタバレを含みます。
以下の雑文も同様であることをここに明記します。
ならびに以下に対する読者の感想に対して
筆者はその責任の一切を放棄することも明記しておきます。


 一読しての感想はこの作品が一流の娯楽であるということだ。わたしは常に直観、こと何かしらの作品(書籍なり音楽なり絵画なりその形態を問わず)に触れんとする際の理由として自身の直観を大いに信じる。この作品を読もうと思ったのも映画版のTVCFをなにかにつけて見せられて、普段であれば有象無象の一として看過するのだがどうもこのCMには観る者をおびき寄せる力があるらしく電燈に吸い寄せられる羽虫よろしくわたしも惹かれたわけだ。とはいえ多忙にして薄給の身、映画館で観るほどの時間もお金も割けなかったので文庫本を購入した次第なのだが、いやはや最高の娯楽作品であった。
 娯楽作品の神髄とはその作品中ではなく、鑑賞後に鑑賞者がああだこうだと喋りまくる井戸端会議にある。したがって作品に必要なものは「推測を招く隙」である。よくわからない人は手品を考えればよかろう。我々はその種を知り得たいとこそ考えるものの、実際に知り得たときに感じる喜びと、つづいてその喜びがいかに刹那的であるかという虚しさ(これは先の喜びと異なって、さながら呪いのように永続的だ)を味わうことだろう。幽霊の正体見たり枯れ尾花、枯れ尾花よりも幽霊のほうが娯楽的であることは言うまでもない。さて、こうした娯楽の神髄をこの作品に当てはめてみるとまず題がよろしい。一単語、これを隠匿と言わずして何と言おう。その字面とは裏腹にこの題は内容の数パーセントしか告白していない。しかも告白とは隠された物事を明らかにすることであり、つまり「何か隠している」という暗示(しかし、実に明示的な)を目にした者に与えている。谷崎潤一郎は障子の薄明かりやようかんの色合いをして「陰翳礼讃」と言ったが、その陰翳が物理的なものに限らないことは彼も、そしてすべての人が知り得ていることろだ。隠された翳りこそ「鑑賞」の発端であり、侃々諤々(=娯楽の中心)の火種である。人間はブラックボックスの中身そのものより、中身を妄想することを好む生き物だからだ。この作品のそうした一流の娯楽性について、本編後に映画を監督された中島哲也氏は文庫本第306ページにおいて見事に看破している。彼の発見は紛れもない真実であり、この点を見抜けなかったわたしはやはり「つくる」ことには追いつけず、「感じる」だけで一生を終えるに違いないと改めて自身に失望した次第だ。
 したがってこの作品は映像化するよりも書籍であるほうが娯楽的である。映像はクリアな印象を与えるが、ゆえに娯楽の娯楽たる所以をいささか打ち消してしまう。映画『ユージュアル・サスペクツ』はその典型であり、鑑賞後は「なるほど」と面白がってみても残るのは枯れ尾花のみでありわたしは少なからず興醒めしたものだ。書籍は妄想を与える格好のメディアである。わたしはこの作品においていくつか(社会的倫理という娯楽を厳重に羽交い絞めする枷を原因として)映像化できない部分を見つけた。たとえば北原美月の冷蔵庫に押し込まれた遺体などは避けられるだろう。残虐性を押し出して一部のマニアを狂喜させるのも作り手の快楽にこそなろうが、やはり娯楽は一般大衆に向けられ、大量に消費されねばならない。よってその部分はおそらく映像化されないだろう。しかし、読んだ人々には妄想を与える。一週間も放置された女子中学生の死体。グロテスクさや背徳性も加味されて、実に旨みのある妄念を読者に与えてくれるではないか。これは映画版には与えられない、書籍のみが持つ陰翳の為せる業である。
 かつてテレビの企画で(しかし、テレビの実生活への浸蝕ぶりは目を見張るものがある)この作品の映画版を評して「音楽とのミスマッチ」だの「演者の巧みさ」だのを説いている連中がいたが、あれは紛れもない、娯楽メディアとしての、書籍に対する「映画」からの敗北宣言である。娯楽の神髄は作品鑑賞者の井戸端会議であり、愚にもつかない言い争いであり、それを引き起こすのは作品の持つ「隙」や「陰」だ。この点において明示性の高い「映像」というメディアはその娯楽性において書籍に若かないという真実に直面した衝撃の裏返しが、あの「内容以外を称賛する」という、娯楽作品に対しての半ば侮辱ともとれる「絶賛」を生みだしたのだ。確かコメントしていた連中のなかには現役の映画監督らしい男(わたしは彼の作品を観たことがないし、別に観たいとも思わないので『らしい』とつけた。ちなみにテレビ番組の名前は思い出した。『お願い!ランキング』である。)がこの映画化作品に対し「はっきりと描いてほしかった」などという評をしていたが見当外れと言わざるを得ない。娯楽作品は論文ではないのである。すべてをくっきりはっきり説明する必要はない、という真実を彼は知らないのであろうか。また、現代はブログやtwitterなどの井戸端会議にうってつけなウェブサービスに事欠かない。こうした時代に合致しているという点においても、やはりこの作品は娯楽作品である。
 さて、ここまで書いたところでわたしもひとつの告白をしなければならない。この書評は称賛ではなく悲嘆であるということだ。やはりベストセラーとは娯楽の域を出ないものであり、こんな程度の戯言をして「文学」などとは決して認めたくない。こうしたわたし自身の確信をより鍛えてくれたという点においてのみ、この作品を評価したい。とっとと読み捨てようと思う。