「断層」の巻

 「いじめによる中高生の自殺」が報道されるたびに思うのは、ここにおいていじめを争点に絞ることそのものが解決の糸口になっちゃいないという真実をほとんどの有象無象が無視しているということだ。
 「いじめ」の定義を「些細なきっかけによる、特定の相手に対する迫害」とするのであれば「いじめ」という行為は絶対になくならない。なぜなら、それは生き物が本能として行うべきアクションに他ならないからである。ありとあらゆる生物は自身の順調なる生存を最優先事項として、生活している。ゆえに彼らは環境に適応する能力を有する、あるいは敵対すべき他者を排除するなどして今日まで生きながらえてきたわけだ。いじめの理由は「あいつは成績が悪いから」「貧乏だから」「顔立ちが良くないから」であれば、要するに生き物として劣っているから「いじめ」るのであり、先の筆者の理屈に照らし合わせれば、生物として実に自然な行為だと言えるだろう。理由が「なんとなく」であればなお結構だ。いじめの主体たる連中は、その対象に本能的に「劣っている」と判断したことは想像に難くない。「なんとなく」とは「理論化できない」ことであり、つまり「理性で解決できない事象に直面した」がゆえに発生する感情だからだ。換言すれば「いじめ」は「淘汰」に他ならない。
 ここで「いじめ」が「非人間的行為」である点も同時に立証できる。「人間的行為」とは本能を一部、もしくは部分的に圧殺することで完成されるからだ。公衆の面前にて生殖行為を行うことが非人間的行為であることは賢明なる読者諸君にも自明だろう(そうでない人には加療を勧める)。よりソフト(もしくは卑近)な例で言えば、ファストフード店で咀嚼する音を散布しながら知人との会話に熱中しているガキどもに対して眉をひそめることがあろう。なぜ「眉をひそめる」のか、それはガキどもの非人間さを嫌悪するからだ。ともかく、「人間的行為」は本能の抑制によって成立する。つまり「いじめ」は「淘汰」であるとするなら、やはり「淘汰」が本能的、自然的事象であるのだから、「いじめ」も人間の為すべきことがらではないのだ。「いじめ」の本質については以上である。
 ところが以上の話は「いじめによる自殺」においては一切関係が無い。わたしの最も興味をそそられることのひとつは「自殺した生徒」自身についてである。経験したことがある人には共感していただけるだろうが、他人の死は厄介である。死体は腐乱するため放置するわけにもいかず、火葬にする。場合によっては宗教者によって式を執ってもらう。時が経てば宗教機関に今後を委託する必要がある。以上を実際に行うのは決して死んだ本人ではなく、周囲の人間だ。この負担を少しでも減らすよう、書を遺し、蓄えを行うのが「人間的行為」ではなかろうか。平たく言えば、生きている間は他者に迷惑をかけまくるのだから死ぬときくらい善後策を用意しろということだ。当然のことながら、自殺する中高生に以上のような配慮が経済的にも精神的にも出来るわけがない。したがって中高生の自殺は世界で最もエゴイスティックな行為のひとつに違いない。さらに彼らは「自殺の原因」となった連中(彼らも実に救いようのない人間の一部であることは否定しないけど)のことも考えちゃいない。彼らは「報道機関」という、自らの飯の種のためなら手段を選ばない畜生どもによる追及を免れられない。「被害者」たるいじめの対象は、自らの自殺によって「加害者」がどんな害に遭うかを一切考慮しない。しているはずがない。念のため弁解するが、わたしはいじめの加害者を擁護するつもりはなく、被害者の自殺によって「報道機関」が無いこと無いことを吹聴することで、加害者が「被害者」に転ずるという奇妙極まりない事象が、確かに存在する点を明らかにしたまでである。
 責任を問おう。中高生の自殺に最も関与したことがらとは何か。それは保護者の有り様である。「いじめ」は社会的罪悪であり、また「いじめの被害者の自殺」もそれであることは先に述べたとおりだ。少年法が存在する理由はひとつ、法を犯した少年に責任能力が不足しており、その不足分は保護者の指導が埋め合わせるべきだという考えがあるからだ。言い換えれば「いじめの被害者の自殺」もある点では罪悪である以上、その責任は保護者にあると見てよかろう。もっと明確に言おう。
 なぜ自殺することを防げなかったのか、と。
 なぜ自殺した中高生にとって家庭が「砦」や「逃げ場」として機能しなかったのだろう。保護者は保護するために存在するのではないのか。自殺してしまった青少年が持っているありとあらゆる可能性を奪い去ってしまう手段が存在することを、保護者はなぜ看過したのか。「うちの子に限って」などという戯言は通用しない。我も人なり、彼も人なり、だ。事故で命を落とす可能性が0%でないなら、自殺する可能性も0%ではないはずだ。「学校でいじめられているみたいで、ちょっと辛いんだ」という一言を自然に引き出せるような保護者であろうという努力を怠ったのではないか。「努力をした」というのは妄言だ。結果として彼は自殺してしまった。努力とは結果ありきである。ましてや食べ盛りの中高生だ。飯の減りが遅いだけでも「異常」であるとなぜ思わないのか。もっと微細な異常だったかもしれない。しかしその微細な異常を察知していれば、自殺を防げたのではないか。あるいはその微細な異常を察知できないのであれば、保護者たる資格はない。誤解を恐れずに言いたい。中高生の自殺の根底にあるのは、保護者に対する不信と失望である。家庭や仲間の内では些細な悩みでもぶちまけて、少なからず世間との折り合いをつけて、傷つくこともあるだろうが生きていくのが我々の実際だ。ゆえに感受性の高い中高生は、当人とその保護者ちのやり取りで暴露し、ガス抜きを行うことが必須なのだ。その配慮が欠けているから、当人は保護者に対して「この人にさえ話しても無駄だ」と考え、自身にしかわだかまりをぶつけることができず、疲弊して自殺する。実に明快な図式である。
 中高生の自殺を食い止めるためにまず必要なのは「学校の対応」でも「教育の改革」でもなく、「微細な異常でさえ察知する」という保護者の目と「なんでもかんでもぶちまけられる家庭」という機関の存在である。
 
 今回は以上です。