「芥川の無念 序章」の巻

 初めて芥川に触れてから10年になるが、最近彼を「闘士」であり「敗者」として観るという視座を手に入れた。それまで、彼は私の英雄であり敬愛すべき人物だったのだが、ここへきて「彼も人なり」というか、戦って負けた男の哀しさという雰囲気を彼から感じるようになった。
 養老孟司「身体の文学史」にそれは拠る。ご存知のとおり彼は医学に身を置く人であり、身体に関しては人一倍知識があると考えて相違なかろう。この本の中で、「身体」という視点において彼は文学を解剖したわけだが、これがなかなか素人目にも面白い。中世以降の文学では身体は隠蔽されたというのがまずひとつ。古事記では「日本は神の交配によって誕生した」という記述もあるし、源氏物語では、嫉妬にかられた女房達が桐壺更衣への嫌がらせとして糞尿を撒き散らす。江戸を見れば恋川春町の著作は発禁に処せられ、著者自身は行政の執行により監禁される。
では明治はどうか。牛鍋をつついてコーヒーをすする文明開化の瞬間において、身体は文学においていかなる位置を示していたのか。残念ながら、ここでも身体は封じられたままだ。逍遥も漱石も結局は心神の問題に落着してしまったと言わざるを得ない。身体性の復活は芥川の登場を待った。
 芥川作品の身体性は、それこそ中学生でも理解できる。例えば「鼻」。文壇で彼の名をスターダムに押し上げた作品だ。これを私が読んだのは小学生の時分だが、ずばり「鼻が長い和尚さんの話」である。その身体性は非常に明確だ。ちょっと年齢を重ねると「河童」にも見られる。例の出産のシーンである。単純に出産の場面だけであれば「或阿呆の一生」にも読むことが出来る。かくして、養老氏はつまり身体を基点に文学史を解き、芥川の登場をもって身体の復活となし、それを新時代の幕開けと位置づけた。以降、文学で身体が大手を振っているのは昨今の文学界を鑑みれば一目瞭然であろう。
 と、養老氏の解説がここまでだったら「ふーん」と納得してしまうところである。が、氏は本の中において自らの首を絞めるミスを犯した。それは「羅生門」を引き合いに出したことである。

つづく。