「芥川の無念 暗闇」の巻

 これは「芥川の無念 序章」の続きである。よって、まずはそちらをご参照されたい。
 http://d.hatena.ne.jp/araimeika0910/20050525#1193764139

 さて芥川といえば時代物である。が、それは普遍性を時代に仮託して描かれたものであり、例えば「地獄変」などは耽美主義をがMain Themeだ。多くは今昔物語集に依るとされているが、芥川がなぜこの「中世」を舞台にしたのかをまず解く必要があろう。一言で言えば、芥川の目標のひとつである「身体性の確保」のためだ。古代はそれこそ身体性が文字通り赤裸々に描かれてきた。古事記には日本を生み出すための「まぐわい」の様子が記してあるし、桐壺更衣への嫌がらせは通路に排泄物を撒き散らすというものだった。が、中世の幕開け=武士の台頭はそれらを打ち消すこととなる。心神が身体に先行する時代だ。いくら土地が根幹にあるとはいえ、将軍と武士とを繋ぐものは忠誠心に他ならない。これより身体性の隠蔽が行われる。こうした要素の薄い時代に、敢えて芥川はテーゼとした。これは私が電子音楽を「最も人間味あふれる音楽」とするのと似ている。要素が薄いからこそ、それが引き立つのである。アコースティックの音が人の心を揺さぶるのは当然だ。PAやエフェクタといったfilterを通し、それでも感動できる電子音楽を「人間味あふれる」と言わずして何と言おう。かくして芥川は身体を描くために身体を拒絶した時代を舞台にした。
 ここで「羅生門」である。先ほど芥川は身体性の確保を目標としたと書いた。これはつまり心神と身体とを同列に見る、極めれば身体を過大評価することだ。問題となるのはラストシーンである。下人の理論はつまり「死人の髪の毛を抜くことは老婆に対する強盗より重罪である」ということだ。ここで重要なのは下人は決して以上の二項目を同列として見ていない点である。少なくとも老婆を「罪人」を看做したうえでの強盗だからだ。つまり強盗の方が死人を弄くり回すことより「善行」寄りという論理になる。結局のところ、芥川も身体に関わる事柄=TABOOであるという中世以来のTheoryを破れなかったのだ。かくして、芥川の無念が出現した。

つづく。