「親殺し雑感」の巻

 親を殺害したとして、15歳の少年が現在留置されている。現在の刑法に依れば第39条に抵触しない限り、彼は死刑、或いは懲役に処せられる。渡辺浩弐氏はかつて「親殺しの罪は問われるべきではない。なぜなら再犯の可能性が無いからだ」というコメントを、自身の著作内でしていた。同感である。刑罰を施すのは、肉体的或いは経済的痛覚を与えることによって対象者に自らの犯した罪を把握させ、再犯の可能性を低めるためである。死刑が「極刑」というのも、高確率に根源的断絶を図ることが出来るからであろう。ここで「高確率」としたのは、別にシャーマニックな死者の蘇生を鑑みているからではなく(確かにそういう話は好きだけど)、所謂ブラック・ダリアの占める割合を考慮しているがゆえである。福岡ではあの「ディルレヴァンガー」のそれがまたしても発生していると聞く。話が逸れたが、とにかく親殺しは、特に今回のような目標が自らの親にしか向いていない場合は、再犯の可能性は極めて低いと言えよう。が、彼が殺人の感触に味をしめ、今度は通りすがりの人を殺害する可能性も否定は出来ない。思春期は自身の性的嗜好を自覚する時期でもあるからだ。やはり刑罰は施すべきだろう。
 次なるトピックは私の経験から鑑みた彼の殺害動機を述べてみたい。休みの日にも家業を手伝わされ、肉体的征服を受けた上で「頭が悪い」と罵られた。人間としては権利が蹂躙されたとしても過言ではあるまい。その際に「親側」の人々は異口同音に反論する。「育ててやってるんだから家の手伝いくらいが何だ」と。冗談じゃない。河童じゃあるまいし、我々は生を選択できない。受容一辺倒に耐え忍び、とりあえず食事を摂っているに過ぎない。少なくとも、自分の子が自立できるまで「無理矢理に生を受けさせてしまった」責任をとるべきである。つまり、心神および肉体の健康維持および自立の促進を手伝うのだ。この点において昨今の「親連中」は大いに勘違いしていると定義して差し支えなかろう。「頭が悪い」のではなく、「自分が頭を悪くさせた」のである。
 出来る限り物事に中立でありたいがゆえに、今度は「子供」を批判する。頭を押さえつけて罵倒されたぐらいで殺すか普通?である。このへんで私は深沢七郎的な戸惑いを見せざるを得ない。私が幼少の時分に親の気分を損ねようものなら、即刻家から引きずり出された。かつて我が家が団地住まいであったとき、二畳ほどのベランダがあった。著しく父親を怒らせ、雪の降るなかシャツ一枚で何時間か放置されたこともあった。おそらく何分かだっただろうが、ひどく長く感じたのを覚えている。軽いものになるとエアガンで打たれる、玩具の類を窓からまとめて投げ棄てられる、食器を投げつけられる、等々。平手打ちは日常茶飯事である。箸の持ち方が間違っていた日には、叩かれ持ち直し叩かれ持ち直しを繰り返した。精神的に傷つけられた言葉には「お前はもう要らない」「俺たちの人生に何の関係も無い」「お前みたいな奴の意見が通用することなんて万に一つもあるわけがない」など、いくらでも想起できる。なので、頭を押さえつけて「頭が悪い」と言われたくらいで殺すというのは、どうも沸点が高すぎやしないかと考えてしまう。が、どうもこれが違うらしい。私の沸点が低いのだそうだ。思えば我が家、というか私には親に大々的に反抗した記憶が無い。単に幼少期からの積み重ねによって、堪忍袋の容量が人一倍であったに過ぎないのだろう。この点において、親には申し訳ないことをしたと思う。子供の反抗は彼の成長であると同時に、親の成長を促す出来事でもあるからだ。ここまで縛り付けたら、或いはここまで傷つけたらこの程度まで反抗される、という「度合い」を親は学ぶのである。私はこのたいへん重要な機会の悉くを奪ってしまった。妹は私と違って人並みに反抗期を迎えた。門限を破るなどの通過儀礼を一通りこなした。この際に、親の起こしたアクションといえば注意程度のものだ。いつぞやに荷物をまとめて妹を追い出したことがあったが、一日で折れてしまった。このとき、私ははっきりと悟った。私は彼らの成長の機会を奪ってしまったのだと。特に父親は、妹を殴ったことは一回も無い。彼はそれほどまでに親としての経験値が低いのである。これも偏に私が反抗らしい反抗をしなかったがゆえで、非常に申し訳なく思うのだ。
 さて、敵を「親」に戻そう。というより、親としての経験が無いためにどうしてもこの構図になってしまう。さて、非難すべきは少年の両親の鈍感さである。殴り殺されるまで、自身の言いつけが我が子の権利を著しく傷つけていたことに何故気付かなかったのか。例えば子供でなく同僚だったらどうか。臆面も無く休みの日に用事を頼めるだろうか。頼むにしても「申し訳ないんだけど」くらいの言葉添えは必要だろう。「自分の子供にそんな気を遣いたくない」という親連中は、少年の両親よろしく撲殺されても致し方あるまい。一人の人間として尊重せずに何が育児だろうか。先にも述べたが、親の義務は霊的指導も含む。権利を重んじて育てた子供は、きっと権利の何たるかを把握するはずだ。さて、実際に休みの日に用事を頼まれた子供はまず拒否する。タダで動く人間はいない。ここで何かしらの埋め合わせはあるべきだ。が、おそらく少年の父親は一喝し無理強いしたに違いない。子供は結局親の「怒り」に怯えて仕事をこなす。ここでもまだ遅くない。この後に作業に相当するだけの手当てがあれば良いのだ。が、これも無かったと考えてよかろう。こうしたわずかな埋め合わせを滞らせたために、結局親は「殺される」という「一括返済」を選択せざるを得なくなったのである。僅かな「嫌な気分」に、それが「解消されない」という利子がついた結果が子供によって殺されることだった。語弊があるが身から出た錆であり、殺されるべくして殺されたわけだ。すべては単なる「権利への無知・無関心」に過ぎない。
 これを機に必要なのは、決して「青少年に優しき心を身につけさせること」などでは断じてない。それはまったくの勘違いで、真に要求されるべきは「親の『自分の子供』観を養うこと」である。子供を侮ったり、逆に子供に謙ったりとかじゃなくて、真っ当な人間として接するべきであることを確認しなければならない。子供には過度の擁護も信頼も要らない。他人同様に扱うだけでいい。それさえあれば、多少の傷は負うかもしれないが、殺されることはまずないだろうと思われる。

 今回は以上です。