「芥川の無念 敗北」の巻

 http://d.hatena.ne.jp/araimeika0910/20050605#1193764530
 ↑まずはこちらを読んでから。
 芥川も結局「身体性」を確保出来なかった。遺稿のひとつである「或阿呆の一生」においても度々身体は明示されたものの終盤にはPlatonic Suicideという概念を抽き出し、死までも形而上に内包してしまうほど彼は身体から離れてしまった。ここにおいて残念は無念へと昇華する。Platonic Suicideは「精神的自殺」と訳されるが、実は「無念」のことではなかったか。文字通り念の消失という意味を中心に据えた語彙であることを訴えたのではないか。そして後に登場するDouble Platonic Suicideは「精神的心中」と訳される。この「心中」の相手も、先を踏まえれば自らの身体と考えることも出来る。精神及び身体の消失、これこそがDouble Platonic Suicideなのだ。今回の副題を「或阿呆の一生」の最終章から採っているのだが、これも芥川の敗北宣言であるとしても間違いではなかろう。かくして彼は自殺という最も精神的な身体性をもってこの世を去ることとなる。天寿の全うは身体性に基づいた死だが、自殺が精神性に基づいていることは言うまでもない。
 ここまで私が芥川を敗者としたいのも彼を信奉する向きがあるからに他ならない。霧間誠一の言う「Sacrifice of Victor」の一種であるとするわけではないが、それでも彼は敗北のうちに死んだ「闘士」だったのである。以降の近代文学は身体も多少は登場した。が、当然それは文字及びそこから生まれる概念を元に構築されているという点で身体性は極めて希薄である。武道に身を投じボディビルに明け暮れ、駐屯地で割腹した三島も同様に身体を精神下に置いた人物の一人である。現代文学においてはどうか(現代文学に関しては思うところがあるのだがこれはまた別の機会に)というと、実に身体性が蔓延っているかのように見える。金原ひとみの最新作を読んだが、拒食の女性の話であった。が、それとて精神による身体の完全な抑制であることは明白だ。文学は芥川以降、身体を確保できぬまま連なってきたわけである。この現象の良し悪しは到底私の量り知ることではないが、ただ感じるのは事態が膠着へしか進んでいないということだけだ。

 終わり。