「言文一致」の巻

 四迷は小説に「言文一致」をふんだんに取り入れたとして高く評価された。それは文章に土着感や臨場感を演出させたというそれだけのことだが、それは小説においては非常に重要なことだ。だったら何故先人はその方法を用いなかったのかというと単に思いつかなかったにすぎない。彼らには言と文とは別次元の世界であり、こと「文」の非表現性、匿名性を理解していたのだろうと思われる。序文が聊か長くなったが今回のテーマは「言文一致」である。しかも、私の。私はほぼ「言文一致」の人間である。文章において用いる語彙と会話において用いるそれとの差はほとんど無い。理由をいくつか分析してみたい。
 まず語彙を失うことの恐怖(恐怖は人間を努力させる最高の動機に違いない)である。これは「ワープロの普及による漢字書き取り能力の低下」に近いもので、つまるところ普段から日常的に語彙を振り回していないと、いざというときに文章化できないことを危惧しているのだ。実際、私の日常会話には「形而下」「蓋し」「快楽主義」などという単語が出てくる。これは無意識的行動のための意識的行動であり、丁度柔道の打ち込みや空手の型に似ている。
 もうひとつはプライドである。お洒落とも換言できよう。語彙の少ない会話をしているのに、文章における弁が違った感触を持つのが「格好悪い」のだ。そもそも表裏とは内面と外面とにおいて起きるべきものであり、専ら外面的に起きるそれは私の美学に反するというわけだ。端的に具体例を挙げるなら服装に一貫性が無かったり、大学に入学した途端に(表面的な)人柄が変わったりというのは非常に美しくない。それはアイデンティティの喪失を意味し、かつ具現化しているからである。斯様な人間は、その一貫性のなさがいずれ言動にも表れるに違いない。一瞬の場は誤魔化せようが、神は遍くすべてを見通しているのを忘れてはいけない。
 この言文一致、当然欠点がある。それは斥力の発生、要するに何か小賢しいこと言ってるので人が寄ってこなくなるのだ。元より他人に近づき難い印象を与える私(20年も生きていればそれくらいのことは理解しているつもりである)が、これではますます人間関係を失ってしまう。日々を大学とバイト先との往復で消費していて、碌に部活やらサークルやらも出来ない人間がこれでは非常に宜しくない。かといって「言」を軽薄化するつもりは毛頭無い。自らのプライドを棄ててまで人間関係は求めたくない。以前呑み会やらサークルやらの話をしていた学生に「君は大学に何をしに来たのか」と詰ったことがある。大学生の第一義は勉強であり、やれ学生同士の呑みだのサークル活動だのという事柄は二の次だからだ。が、最近はこの「二の次」が、実は第二位とは行かないまでも第三位くらいに重要なことでありそうな気がしてきたのだ。私には未経験の努力が必要とされている。