「文学最前線」の巻

 『文藝』2005年夏号を読み返す。実際、何度も読み返しているのだ。とりあえず山田詠美はあまり好きじゃないので研究しておく必要があるからだ。というより現代女流文学そのものが好きじゃない。面白くない。金原ひとみの新作中篇もなんか拒食症の女性が出てきてうだうだと書かれている感じで研磨された印象が持てない。作品たるもの研磨なくして存在し得ないわけで、つまり金原氏のその作品は作品に非ず、と。
 ただ、現代文学がつまらないと言っているわけではない。実際に面白いものもある(いいものもある、わるいものもある!)。やはり人間は枕詞なりコピーなりが無いと判断できないのだろう。これは現代文学の抱える大きな命題だ。まず、現代文学が古典文学より興味が示されないのは何故か。単に研究者がいないからに過ぎない。わたしの所属している大学でも、近代文学の講義はあっても現代文学のそれは無い。おかげで来年より始まるゼミにおいて失望しきっているくらいである。もうひとつ、賞関係がある。これは昨年よりわたしがあらゆる場で主張し続けていることだが、2004年の文藝賞二作品はとにかく駄作であり(芥川賞の候補になったことさえ疑問視せざるを得ない)、新潮新人賞が昨今稀に見る面白さだったことにも関わらず、後者は全く日の目を見ていないのが不思議でならない。実際に件の二作品はとりあえず売れたらしいが。バックナンバーでも古本でもいいから是非とも『真空が流れる』を読んで頂きたい。そしてあの二作品と比較してもらいたい。ところで今年の新潮新人賞は選考委員陣が面白いので、受賞作品にはかなり興味があるのだ。何しろ浅田彰阿部和重町田康である。80年代ニューアカの旗手とプログレ作家とパンク野郎の選ぶ作品とは如何なるものか。期待は尽きない。
 『群像』最新号の山田詠美×高橋源一郎×中原昌也の鼎談は面白かった。ほとんど中原氏のカウンセリングである。カウンセリングの大半は無駄話らしいので、つまり三人の無駄話だ。他人の無駄話ほど面白いものはない。話題は転がるし、文法は滅裂を極める。それでも成立しているのだから不思議だ。中原氏に関してはそもそもヘア・スタイリスティックスが好きだということもあるのだが、とりあえずこの鼎談は面白かった。氏は平成の太宰である。ちなみにわたしは高橋源一郎も好きではないことを付記しておく。