「差し金の乱舞」の巻

 シェイクスピアハムレット」読了。日本語訳は福田恒存氏による。恥ずかしながら20歳になるまでシェイクスピアに触れていなかった。今回は「ハムレット」でもって体験したわけだが、なるほど、役者連中がこれを演劇せんと躍起になるのも大いに頷ける。つまり、ここに記されているシニフィアン(敢えてこの『表層』という概念を醸す単語を用いる)を自身の口から発したいという願望あってのことだろう。ナルシシズムのなせる業ということだ。確かにここに登場する台詞はどれも粉飾に満ち満ちていて優雅を纏っている。福田氏がこの点において苦労されたことは想像に難くない。そもそも西洋の文学(脚本も文字にしてしまえば文学の範疇として)とは技巧に凝っており、日本の短歌や俳諧からしてみれば鬱陶しいくらいにシニフィアンが散りばめられている。ここで理由としては蓮實氏の見解を借りよう。それは日本の場合は「どう読むのか」の文字であり、西欧では「どう書くのか」の文字であるという塩梅である。まず音声が先行しているがために「音」のしての美しさを目指し、ゆえに飾るのだ。韻文にもそれは端的に窺える。ハムレット自身も文字にすることを厭うていたことからも充分に推察が可能だ。短い音よりも長い音、すなわち「音楽」の方が美しいというか「食らわす」のには最適だし、即効性もあるだろう。惜しむらくは、わたしが原文を読み解くまでの語学力を持ち合わせていない点である。日本語訳では、その造語、言葉遊びや押韻などを味わい得ないのは言うまでもない。ことシェイクスピアに関してはそれが多彩だ、という評判のみを耳にしたことがあるので尚更だろう。そもそも「造語」、つまり「言葉を造る」という思考方面そのものが、「耳から言葉を学んだ」彼のシニフィアンに対する姿勢を雄弁に物語っていよう。いろいろと学ぶことの多い読み物だった。だからこそ学者がいるわけだけれど。