「いと」の巻

 夢野久作ドグラ・マグラ」読了。足掛け二日。「シンセミア」と重ねて、長編ならこの程度で読めるらしいことを認識した。で、物語のほうだが実に面白かった、と書けばそれで終わってしまうので野暮な所業と重々承知の上で書き連ねてみることにする。
 「DEATHNOTE」然り、明晰な人間同士の頭脳戦というのは目にしていて痛快である。が、それだけならば赤川次郎でも読んでいればいい話なわけで、ここにはもうひとつの側面がある。それは頻繁に登場し、かつ、この物語全体の骨子となっている心神における並々ならぬ知識量だ。養老孟司氏が声高に叫んでいる世界の脳化をもそのベースラインに組み込んでいて、その先見性は驚嘆に値する。当然エンタテイメントとしても一流であり、空虚からの皮切りや謎解き、登場人物の老獪さとそれに伴う(に十二分に値する)深謀遠慮に終盤への加速度的な展開とどこを切り取っても旋律的かつ戦慄的なストーリーだ。作中に登場する「ドグラ・マグラ」も憎い演出である(まるで『シンセミア』の『阿部和重』のように)。しかしながら、どこまでも人を喰っているというか、口の端が吊り上がる作品であったのも確かだ。現在手元にあるのは角川文庫版なのだが、その裏表紙には一応の粗筋というかレビューがある。面白いのは、それまでもが作品本体の香りを漂わせている点だろう。一度手にしただけではその面妖さというかギミックには気づかない。しかし、一旦作品全体を読み通してみると角川の仕掛けた修辞による罠を読者は看破する(ように感じる)。気が利いているというか、多少やりすぎな感も否めない演出だ。中には彼らの仕掛けたレトリックを鵜呑みにしてしまう人もいるだろうが、まあそういう人々は小説の世界をより増幅させて味わえているために幸せだろうから、敢えてここでは提示しない。迷路は出てしまった瞬間にそのフェロモンを失うからである。
 けれども、阿部和重のように親切でないことは上に述べたとおりだ。主人公の一人称という書き手としても読み手としても小説の世界に埋没しやすい形態を採っていながら、ここでは主人公の心理や思考の方向、視座などを頻繁にzapしている。つまり、その浸透性を逆手にとって混乱をより混乱たらしめているのだ。これを反転させれば、多くの推理小説が三人称であることと同義である。つまり、推理小説は三人称を用いることにより、物語全体を明瞭化すべく客観性や全体性、俯瞰性を重んじなければならないという第一条件を満たしているわけである。「ドグラ・マグラ」ではただでさえ張り巡らされた権謀術数を読み解き、解き明かす必要があるのに、剰え主人公の一人称によって語られることからその不明瞭性を強く打ち出しているわけだ。実に手の込んだというか唸らせられるというか、綿密かつ大胆な手法である。確かアニメ「ブギーポップ・ファントム」でも似たような手法が用いられた。それは女子高生が撲殺されるシーンなのだが、アニメーションとはいえ頭部からの流血を克明に描くわけにもいかない。ここでスタッフ各位がとったのは殴打され続ける女子高生の視点をもってカメラワークとするという離れ技だった。これなら残虐性と倫理性という両極的側面を両立できる。また、アニメーションならではの方法である点も考慮すべきだろう。
 とかくに見事な娯楽作品であった。これなら千円払っても悪くないと思われる。