「神童」の巻

 夏休みになるとたまにテレビ番組で人並み外れた知力を持つ子供たちが紹介される。日本の風物詩である。5歳にして魚偏の漢字を読めたり、与えられた仮名から瞬時に諺や故事成語を引き出せたりととかくにヴァラエティに富んだ「神童」たちがブラウン管に登場する。彼らを見るたびに思うのは将来への憂いだ。
 「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」という言葉がある。つまり幼少期というのは誰でも物覚えを得意としているわけで、何も騒ぎ立てることのほどではないという意味にわたしは捉えている。しかし逆を言えばそのスタートダッシュはかなり後の知力に影響するものだということでもある。極言すれば幼少期の素養が生涯に亘る知力を決定付けるわけだ。となると争点がその質であることは自明だろう。果たして魚偏の漢字を読むことは後に繋がる知識であろうか。諺を思いつけるとして、そこに介在するべき意味、故事などを蔑ろにした場合、それは価値ある知識と呼べるだろうか(わたしが目にした『神童』にそれは伴っていなかった)。現在の日本における青少年に求められるべき「学力」とはゼネラリスト的要素が非常に強い。つまり「特技」は何の役にも立たないということだ。それは端的に大学入試センター試験という存在があるわけだが、とりあえず現前のルールに不平を言っても仕方があるまい。青少年にエキスパートは必要ないのである。大学とはエキスパート養成機関であるにも関わらず、だ。
 このような場面に遭遇した「神童」たちはどうするのだろうか。自身の手にしている素養が世界において無用の長物でしかないと知り、「神童」の称号(それは彼らのプライドでもあることは瞭然だ)を剥奪された彼らは如何にして生きていこうとするのか。目の前の課題から逃亡し非行に走るかもしれない。無意味な知識を叩き込んでくれた人々(つまり親など)に怨恨を覚えるかもしれない。どうあれ、彼らは歪んだ「学力」の生み出した不幸の体現者である。昨今の教育を我が子に施さんとする人々はこのことにあまりに無自覚なのではないかと思うのだ。