「続・お笑い芸人雑感」の巻

 とかくに笑いを飯の種とする、あるいはしようとする人々は実に要領の悪い方々である。感性の中で最も人工的捏造が困難なものは笑いだろう。怒りは逆鱗に触れれば容易く引き起こせるし、悲哀は同情でもって導くことが可能だ。その人の趣味に合わせれば「喜び」という概念を簡単に抽出することもできる。それは芸術や食事、性癖など広範に亘るが対象がカテゴリに属していれば問題はない。曰くアール・デコの家財、曰く鯉のあらいをからし酢味噌で、曰くハイヒールで踏まれるのが堪らない、云々。しかし、笑いはそうはいかない。個人の好悪がすべてを決定するからして、普遍的というか公式的な手段がまず存在しないからだ。ここまでは以前に述べたとおりである。
 さて、ここにおいて、わたしはもうひとつの見解を示したい。それは彼らが極めて人間の見地に立脚し、かつ体現しているというものだ。それは先から述べていることに顕されるように、笑いとはとは最も人間の神経に直結した感覚だからだ。ゆえに複雑で繊細で、厄介なもの(これは日々、人間の社会に生きている者なら痛感していよう)だ。いかなるスパコンでも計算しきれないものだ。言い換えれば、人間が人間たる所以、そして明確なる証拠である。これを刺激せんことを第一目標とするお笑い芸人諸兄は、まず人間でなければならない。ある手法に則るには、その手法を用いる主体を理解し、かつ手順を再生するのが有効な手法だからである。しかるに、彼らは人間たろうとするがゆえに、様々に笑いを模倣する必要がある。なぜなら繰り返しているように笑いとは十人十色、必ず一致する「人間」のサンプルがないためだ。寄席では単に「落語好き」という最大公約数の元に集団が寄り集まっているに過ぎないことは言わずもがなである。
 ここまで来ると彼らの苦悩は計り知れない。よしんば良案が浮かんだとて滅多矢鱈と披露するわけにはいかない。笑いとは消耗品だからである。机上の空論を重ねて推敲、研磨するしかない。かくして磨き上げられた感性が決していい結果を残せるわけではないのも悲劇だ。漫才であればたかだか数分のために彼らはその幾千倍の時間を費やしているのだろう。それでも沸かぬ客席を後にし、再び頭脳を動かす。探せば他にも金を得る手段があるというのに、何が彼らを笑いへ赴かせるのか。わたしには到底理解し得ない。ただひとつわかるのは彼らが人間の代表であるということだけだ。人間の人間たる「笑い」という紛れもない証拠を、人間性を欠き始めている人々に提示し、触発させる。その一端を担う彼らが人間でなくて何であろう。そもそも、その不器用さと愚かしさからして人間そのものではないか。わたしは、彼らに敬意を表してやまない。