「科学的映画論」の巻

 昨日はバイトが早く終わったので「Kill Bill vol.1」を鑑賞した。もう何回目になるかわからないが、面白い。ご存知の通り人間がばっさばっさ斬られていくのだが、ここでふとわたしは別の映画を思い出した。ジャンルは違えど流血の量では劣らない『エルム街の悪夢』である。他人の夢を渡ることの出来る怪人フレディが夢の中で人を殺しまくるというスプラッタ・ホラー映画だ。この映画において、わたしはどうにも納得できないことがある。あらゆる犠牲者は夢の中で殺されるわけだが、果たしてそれは現実に反映されうるものだろうか。
 「痛み」とは多くの人が勘違いしやすい知覚だ。「肩が痛い」とか「腕が痛い」とかいう表現は決して正しくない。肩や腕にあるのは単なる欠損であり、まず脳はその欠損を埋め合わせようとする。それに先立つ危険信号として「痛み」があり、つまり、「痛み」は端的に脳の働きによるものなのだ。「殺し屋1」の垣原が「痛みを制しているのは脳みそだ」と言っていたが正にそのとおりで、彼はその理論から痛みを(多くの人が痛みとして感じているように)感じない人間であった。映画というカテゴリであれば「エイリアン3」の冒頭を引こう。シガーニー・ウィーバー演じる主人公リプリーが同僚であったヒューマノイドのビショップと再会するシーンである。彼は前作「エイリアン2」においてエイリアンの親玉に上半身と下半身とを引き裂かれてしまい、リプリーと再会した際には上半身だけがスクラップとして打ち棄てられていた。「大丈夫か」と問うリプリーに彼は「足が痛い」と答えるのだ。しつこいようだが、彼は上半身だけの存在であって「足」は既に存在しない。しかし、彼の頭部にあるであろう統御機構は彼の脚部の欠損を訴えているのだ。ヒューマノイドであるから引き合いに出すのは不適切だという反論はお門違いだろう。我々も同様で、例えば「肩が痛い」場合、脳という統率システムが肩の欠損を感じ取り、早急に治療が必要であることを訴えているにすぎないのだ。逆を言えば、脳が知覚しなければ、痛みは感じないということだ。
 翻って「エルム街の悪夢」である。怪人フレディは夢の中で人々を殺す。それは刺殺や圧殺であったりとヴァラエティに富んでいるのだが、問題なのは実際に殺された人々の様相である。一切流血や打撲の痕が無いのだ。これにはひとつの実例を示す必要があるだろう。脳は時として現実を超えるという例だ。こんな実験がある。対象者の目の前でに熱湯の入ったポットを持つ。次に目を閉じてもらい、その手の甲に冷水をかける。すると被験者の多くは「熱い」と知覚するらしい。中には実際に火傷を負うケースもあるそうだ。つまり、錯覚によって身体が影響されるということである。より卑近な例で言えば、大事な会議の前に胃痛に悩まされる、などもこれに当たる。しかしここまででわかるように、何かしらの身体的影響があるはずなのだ。「エルム街」にはそれがない。次に映画「マトリックス」を引用しよう。マウスという登場人物は「目覚めた」人間の一人だが、マトリックスにログイン中に銃撃を受けて死んでしまう。仮想現実の世界であるから、実際に死ぬはずはないのだが、彼の脳は「銃撃」を知覚し、現実世界でも口から血を噴き出して死んでしまう。マトリックスは非常に精巧な仮想現実である。脳へ与える錯覚の精巧さも同様に高いと見て差し支えないだろう。ゆえにマウスは死んだのだ。けれども、やはりここでも「流血」という身体的影響があるわけだ。ここで考えられるのは「死んだ」という知覚を脳が察知したのではないかという反論であるが、それは残念ながら簡単に否定される。脳は「死」という概念を持ち合わせていない。死を体験したときには既に知覚は失われている。ゆえに常に死は未知である。言い換えれば「死んだ」という知覚そのものが存在しないということだ。よりこの論理を強固にするならば、「エルム街」での殺され方は鋼鉄の爪で腹を抉られたり巨大なフォークで脳髄を突き破られたりと、どれも荒唐無稽なのだ。まあ、この辺りは「夢を見ている間はそれを夢と把握しない」という一般論によって多少否定も可能ではあるのだけれど。
 ところで、こういうことを考えるのは映画愛好家として不毛だろうか。GOGO夕張のはためくスカートと回転する鉄球を見ながらそんな考えを巡らせた次第である。

 今回は以上です。