「頬を伝うもの」の巻

 涙腺が緩いことは何の得にもならない、とつくづく思う。これは別に男が泣くのが格好悪いとかそういうのではなくて、論理化できない涙の存在があることが悔しくてならないのだ。いわゆる「感極まった涙」というやつである。喜びでも悲しみでもない、位置づけの困難な涙。しかも、その位置づけがある程度定まったと見るや、既にその涙は止まっていて、頭に多くの謎と不快感を残す。厄介だ。実に厄介だ。殊に鬱陶しいのが音楽における涙である。DAFT PUNKの「ONE MORE TIME」を初めて本格的に聴いたときにも泣いてしまったのだが、これはその良例だ。悲壮なメロディがあるわけではなく、歌詞も大したことは言っていない。リズムマシンの無機質なビートとシンセ音、ヴォコーダ処理された軟弱な男性ヴォーカルがあるだけである。
 これが本を読んだり映画を観たりでは在り得ないのも特徴だ。何かしらの悲哀とか歓喜とかのありふれきった涙腺を刺激する状況でもない限り、わたしは泣くことはなかったし、これからもないだろう。だが、ここでもわたしには疑問が残る。このような涙ならば多少の予測は可能なのではないかということだ。契機におけるシステム及びその原因が少なからず明確であるからである。当然であるが、未だにその予測はわたしにとって不可能の範疇だ。というより、予測された時点で涙の発生する可能性は極めて低くなってしまっているという考え方がある。理性による感性の凌駕だ。パトスとロゴスとは常に一方が先導役であり、双方が表層化することはまずない。よって、脳を理性が支配した瞬間に感性の使者である涙はその影を潜めざるを得ないわけである。
 ある程度の質量、そして流体という論理的解釈が可能なこの存在は、しかし、論理的な解釈によっては存在し得ないという理解しがたい特徴を持っている。例えば怒りであれば、それは物理的定義は不可能である。アドレナリンの増加とかそれに伴う心拍数の上昇とかいうのはあくまで怒りの持つ一側面を捕らえたスナップであり、怒りそのものの特徴ではない。言い換えれば自体を論理的に解釈することはまず出来ないのだ。翻って涙であるが、これは先にも述べたとおりであり、しかも同時に、これは物理的接触が可能な存在なのである。さらに言えば、感涙などというものは生物学的見地に立つと何の価値も無い生理作用と定義づけられよう。そのうえ、霊長類はきわめて知能が高いので涙を自在に抑制し様々に適用する。「泣き落とし」というやつだ。知能の高さゆえに誤作動も多く、涙にその感性を触発されて理性を追いやってしまうこともしばしばだ。
 この尊大なる無用の長物は、いったい何なのだろうか。