「壁に耳あり」の巻

 阿部和重「トライアングルズ」を読む。ストーカーの深謀遠慮における一切の告白を、それを聞いた子供の視点から展開していくという話である。序盤でいろいろと謎を提示しておいて少しずつひもといていき、大事件へ近づいていくというスタイル。つまり、すべては過去の事柄であり、その記録という箇所では「ABC戦争」と似ている。だが、今回は非常に主観的(主人公の子供も『大事件』の当事者の一人)なのでその点では新しい。
 ストーカーの行動理念とは何なのだろうか。以下に登場するストーカーの男性(以降、本文に沿って『先生』と記す)の台詞を引用する。

> つまりはこういうことなんだ。
> 僕は出来る限り客観的に彼女の行動を観察してみたかったんだ。
> その場合、あくまでも僕という他者を意識していない彼女の姿でなければ駄目なんだよ。
(中略)
> だって、僕と何らかの関係できてしまってからでは、
> 彼女はいわば僕用の態度をとりはじめてしまうからね。
> そこで彼女は自分の行動を制限してしまうはずなんだ。
(中略)
> そういうわけにはいかないんだよ!
> それでは彼女のすべてを知ることはできないよ。
> だから僕用の態度が固まってしまう前に、いろいろな彼女の姿と、
> まったくの素の部分を見ておきたかったというわけさ。

 阿部の考え方によれば対象の素を見ることであるという。表情や行動に不純物の無い状態である。言い換えれば嗜好や性癖が露呈する状態である。人がその人自身である瞬間とも言える。それを探るべく、「先生」は偶然見てしまった定期券の申込書から対象の女性の住所を手に入れ、アンケート調査員になりすまして彼女の性格や嗜好の一部を把握する。また、ゴミ袋をチェックしたり盗聴器を仕掛けたりして生活を鑑みる。つまり、内面的にも外面的にも素な彼女を知ろうとしたわけだ。では、この彼の熱烈な探究心の元は何なのか。それはミラーニューロンが作用していると考える。これは以前にもごく軽く触れたが、他者を模倣したときに快楽的な反応を示す脳神経細胞である。模倣はそこに議論を挟む余地も無く、取りも直さず愉悦なのだ。この細胞により、対象のあらゆることを知ることは対象の言動を模倣したいという欲求と相俟って加速する。また、逆に、対象は自身を捕捉していないという点もやはり快楽になるだろう。これはかくれんぼにおいて発生する快楽だ。このあたりもいずれ専門家によって解明されるだろう。
 しかし、彼が自身の存在を消滅させた上での対象の行動を観察することは、果たして愛と関係があるのだろうか。彼女の嗜好や性癖を知り得て、素の状態を把握し、それに自身の行動を迎合させる(ここにミラーニューロンが作用する)ことは、確かに生物学的愉悦を生み出しえよう。恋ではあるかもしれない。本文でも「先生」は対照の女性の「容姿に惹かれた」と書かれており、同時に彼が「僕は馬鹿みたいにセックスが好きなんだよ」と言及していることからストーキングの原動が性欲であることが明らかだからだ。
 思うに、人を想うということは「先生」の言う「自分の行動を制限」した状態を指すのではないか。本音で付き合うなんてことはまず不可能だ。第一、本音で喋れば混乱を来たすに違いない。相手が存在して、その相手用の態度をとることこそ「想う」ということではないのか。建前を毛嫌いしてはいけない。そもそも、「先生」を視界に入れていない状態であっても、盗聴した電話の内容は決して素の状態ではない。彼はここにおいて誤謬を犯している。電話の相手用の態度であったはずだ。あくまで彼女が素の状態にあったのは部屋の中くらいだろう(別にここで部屋の中に盗撮・盗聴器を仕掛けるのがベターだと言っているのではない)。要するに、対象専用の建前でもって付き合いを行うのが愛であり、思いやりであると考えるのだ。本音重視なんて偽善者の真っ赤な嘘である。

 今回は以上です。