「ハッピー・バースデイ」の巻

 「足あと」を辿ると、偶然に本日が誕生日であるという方がいらしたので、お祝いを述べたい。おめでとうございます。面識はございませんが、この一年があなたにとって価値あるものにならんことをお祈り申し上げます。
 さて、存在の誕生とは何か。その過程や結果を鑑みることなく一言で定義付けるならばそれは「混沌からの切り離し」である。ことに言葉の世界において当てはまる考え方だ。ということはつまり、存在の誕生と概念のそれとほぼイコールであるということである。古事記一言主という神の記録がある。彼の発した言葉によって、その概念に該当する存在がその場に出現するのだ。彼の能力とはつまり、混沌から言葉という定義づけによって、明確なる存在を抽出するというものだ。しかしこの考えを逆転させると、別の真理が見えてくる。それは、対象が言葉によって定義づけされなければ、それは察知できない存在であるという理念だ。当然視覚や聴覚といった一時的なレーダーには捕捉されよう。しかし、何より記憶という行為は言葉によって行われる。ストックの対象も言葉、引き出す際の手順も言葉。言葉の言葉、一切は言葉である。言葉として示されなければ、我々は体験することが出来ず、よしんば体験したことろで経験として蓄積されえない。経験の蓄積とは取りも直さず知識であるからして、我々は知識の希薄な存在となるのだ。
 今回の衆院選においてこの考え方を照応させると民主党の敗因がわずかながらに見えてくる。野党第一党であった彼らが数年前から声高に提唱してきたマニフェスト、それは言葉として彼らの指針やアクションを概念化するという把握の方法として非常に適切であった。それが今回ではほとんどの政党で行われた。これでは(日本人の外来語コンプレックスと相俟って)些かの光を放った彼らの手法が(またその魅力が)弱体化するのは明瞭である。加えて、概念化において必要なのは対象のわかりやすさである。自民党憲法改正も金銭問答もとりあえず脇へ退けておいて郵政の民営化のみを訴え続けた。一本槍は兵法においては無謀であるが、概念化させる対象としては非常に有効だ。キリスト教や他の一神教(もしくはそれに近い、信仰の対象が単数であるもの)と同じで、それに注視しておけば、とりあえずの全体は見渡せるわけだ。けれどもこれはあくまで宗教の場合であって政治の場合とは異なる。異なるが、しかるに、喧伝においては効果的なのだ。ごちゃごちゃと他の宣言や過去の実績が並べられるより、あるひとつのことを提示されたほうが把握しやすいし、理解(したような気になる)も早いだろう。事実、テレビの街頭インタビュー(フィクションかもしれないが)では「自民党の声明と民主党のそれとの区別がはっきりしない」という意見もあったほどだ。
 というわけで、今回は「効果的な宣伝」によって将来が左右されるという人間的な選挙だったと思う次第である。