「カーテン・コール」の巻

 阿部和重ニッポニア・ニッポン」を読む。これで彼の代表作はあらかた読んでしまったことになるのだが、総括するとやはり「グランド・フィナーレ」は異色作であったことを確認できた。デビュー作「アメリカの夜」からあった「肉体改造」というベースラインもパニック・ムービー的な展開も見えないからだ。おそらくそれは長編「シンセミア」で集大成を見せたと言えよう。
 が、それ以上に彼の作品には「関係」に対する疑念というか熱烈な観察があるように思われる。「アメリカの夜」では秋分が誕生日である中山唯生がその昼と夜の均等性から自身の陰陽というアイデンティティを引き出し、「ABC戦争」では山形県のローカル線というごく小さな範囲での顛末を描く。「インディヴィジュアル・プロジェクション」で主人公のオヌマは高踏塾の呪縛から逃れられずにいるし、「無情の世界」では偶発的な出会いが悲劇を引き起こす。「ニッポニア・ニッポン」の鴇谷春生は自身の苗字からトキへの尋常ならざる想いを本木桜への偏愛でもって増幅させる。そして、「シンセミア」に登場する数多くの人物たち。彼らとてただ神町という地域における人々にすぎないが、逆にそれらは複雑に絡み合って、しかも、ほとんどが死んでしまう。これに関して言えば、「アメリカの夜」では暴力沙汰に終わったが、「ABC戦争」以降では登場人物を簡単に殺してしまうのも特徴だ。対して「グランド・フィナーレ」では登場人物が一人も命を落とさない。この点でも異色である。ここで考え付くのは、やはり関係とは常に一方的であり、主体が無くなろうとも関係だけは残るということだろう。主体の位置づけ如何でどうとでもその姿は変わるが、消え去りはしない。関係が消え去るのは人類が絶滅したときのみである。
 繰り返すが、関係は常に一方的である。鴇谷春生にとって本木桜は「桜ちゃん」という守護すべき存在であるが、翻って本木桜からしてみれば彼は彼女を性的妄想の対象とする変質者(わたしはこの単語を好まないが便宜上、使うことにする)でしかない。「無情の世界」における主人公の恐怖は自身による事実確認のみによって発せられ、そこには何らの明確な証拠はない。が、しかし恐怖は確かに存在する。それが例え思い違いであってもだ。ここに類して阿部はもうひとつ、「本音の無意味性」を発しているようにも考える。前にも述べたがストーカーの原理とは対象の素顔を知ることである。それは基本形を知っていればあとはヴァリエーションが分化するだけだという実に論理的思考に基づく探究心に拠る。要はストーカーを突き動かすのは知識欲の一環だということである。しかし、本音や素顔には実際に何の意味もない。それは関係を廃した状態だからだ。人間がなくとも関係は残るが、その逆はあり得ない。言い換えれば本音には何の価値もないということである。
 さて、ここまでを踏まえて「グランド・フィナーレ」を読むといかにこの小説が掴みどころのない代物かということが理解されよう。つまり、物語の中核が「出会い」という関係の始まりそのものに置かれており、それが「関係」として熟成される前に物語が終わってしまうからである。「関係の一方性」は確かに序盤で描かれている。それは主人公とその娘である「ちーちゃん」とのそれだ。けれども、全体に流れる静謐さはやはり不気味である。リアルタイムに彼を追っていた人なら「どうしちゃったの?」と心配せざるを得ないだろう。これを進化と受け止めるか減衰と評するか、迷うところである。

 今回は以上です。