「映画館にて」の巻

 小説や漫画の映画化が当然の手法となっている昨今であるが、個人的に述べれば邦画においてそれはほぼ確実に質を低めている。例えば「2001年 宇宙の旅」。これは映像でなければ出来ないことを多分に用いている。映画化するに足るのだ(事実、映像特殊効果部門でアカデミー賞を受賞している)。例えば「バットマン」シリーズ。一作目から三作目までは鬼才ティム・バートンが製作に携わったこともあって実に豪奢に禍々しく描けていた。殊に一作目及び二作目の主演はマイケル・キートンであり、このコンビでは「ビートル・ジュース」というブラックな映画がある。ティム・バートンはこの薄気味悪さと愛嬌とを融合させるのが実に巧みな人間であると思う。
 閑話休題。そもそもこのことを切に感じたのは鈴木光司「リング」「らせん」においてである。原作を読んだのは忘れもしない、中学一年生の夏休みだ。二作とも図書館から借りて冷房も効いていない居間で読んだ。既に劇場版はレンタルビデオとしてリリースされていたのだが、ホラー映画が滅法苦手なわたしは原作へ逃げたのである。確かに「リング」はカルトホラーであった。が、「らせん」はどちらかというと倒序的な感じの謎解きドラマであり寧ろ知的好奇心が湧いた。遺伝子の塩基配列を用いた暗号のシーンは痛快である。何より専門的知識がベースラインにありながらその道に明るくないわたしでも楽しめたのが気に入った。続いて「ループ」も読んだ。すべての帰結がここで行われるわけだが、素晴らしかった。納得がいった。
 さて、この後に地上波で劇場版「リング」「らせん」が放映されたのだが、これを観て愕然とした。主人公が別人なのだ。鈴木氏は何も言わなかったのだろうか。何よりこの展開では「ループ」に繋がらない。最終目的地であり、同時にすべての解明である「ループ」への道程を断ち切ってしまっているのだ。壮大なラブ・ストーリーがSFっぽいホラーに成り下がっている。確かにあの物語を映像で再現するのは途方もない作業だろう。しかし、ここまで捻じ曲げてよいものだろうか。腑に落ちない。以来、小説を原作に持つ邦画にわたしは深い疑念を抱くようになったわけである。
 「殺し屋1」も何とかしてほしい。精神構造が全く生かされていない。「バトル・ロワイアル」は最近ようやく認められるようになった。「楢山節考」もヴィジュアルだけを追究しているようで面白くない。要するに、映画にする必然性がほとんど見当たらないのである。