「追究」の巻

 伊藤氏貴「阿部和重論」を読む。要するに阿部の作品には軸とか中心といったものがないということだろう。それはわたし自身もかつて「グレイ・ゾーン」という単語を用いて把握していたので別段面白い内容ではなかった。ここで伊藤氏は阿部の作品を「闘う人々の物語」を定義していたが、より踏み込んで「敗者の物語」としたほうがベターだったのではないか。最も考えさせられたのは、いかにわたしが阿部の投げかけたキーワードに鈍感であったかということだ。つまり、彼はあらゆるところで「軸がない」という軸を象徴させていたのである。まるでイノウエの送りつけたフィルムのように。最もわかりやすい例で言えば「シンセミア」を引き合いに出そう。そもそもあの小説の主人公は誰だったのだろうか。神町青年団を中心としたコメディか、田宮明の没落を描いた悲劇か、あるいはその差し金を操っていた麻生未央の陰謀物語か、それとも隈元光博の凄絶な復讐劇だろうか。一切の語り部であった星谷影生の追憶としても読める。もっと単純な構図を探せば「公爵夫人邸の午後のパーティー」が良かろう。最後の最後まで全く状況の異なる二つのグループの現在を往復しながら、唐突に幕を閉じるあの物語の主役は誰なのだろうか。
 そもそも「軸のない」ということを最初に提示したのは他でもない、デビュー作「アメリカの夜」冒頭のブルース・リーに関する一連の流れだ。截拳道の極意は臨機応変な打撃を加えるべく考案された、型の放棄という姿勢である。格闘技の基本はすべからく型である。ゆえに技があり、それは最大効率を生み出すよう設計されている。要するに、型の放棄はアイデンティティの喪失とほぼ同義なのだ。ここに阿部和重の真髄があるのではないか、と伊藤氏は述べる。つまり脱近代である。雑誌「文藝」2004年夏号で阿部は「九十年代にしなければならないと思った」と語っている。近代文学とは個の追究と追求とを核としており、多くの作家や文学者が個を手にせんと躍起になったのが近代だ。ここで阿部は個を放棄することによってポストモダンを提示したわけである。確保と放棄。全くもってわかりやすい構図だ。彼のその軸なき軸は以後、さまざまに形を変えて文章中に登場する。曰く「陰陽」「宙吊りの状態」「みんなわたし」「一方が強まるのを待つほかなかった」「シンセミア(=種なし)」(このタイトルを鑑みるに隈元が主人公のような気がしてならない)等々。以前書いたかもしれないが、わたしは自身の所属する大学に「現代文学」に連関する講義がないことに不満を感じている。が、それも仕方がないことなのかもしれない。現代文学が未だに登場していないからである。言い換えれば、現代に生まれた文学作品は近代文学の延長線上にあるものでしかないのだ。近世文学と近代文学との間には明らかに開国という甚大な事件がある。ゆえにある程度明確な区切りがつけられるわけだが、現代においてはそうはいかない。厄介である。
 ここまで書いてつくづく思うのはいよいよもって卒論のテーマを阿部和重にしないとわたし自身が腑に落ちなさそうであるということだ。そうではないにしろ、わたしにはここまで興味を持ってしまったわたし自身に何らかの形で責任を取ってもらわねばなるまい。
 もうひとつ理解したのはなぜわたしがここまで阿部和重の作品を好んでいるかということである。それはやはり「核のない人物」というキーワードに依る。つまり、他にも「核のない人物」の作る作品でわたしが好むものがあるのだ。それは坂本龍一である。彼の音楽的バックボーンは紛れもなく西洋の古典音楽だ。彼は自身でも自らに「中心がない」ことを言及しているし、さまざまな音楽に貪欲に取り組んでいることからも窺えよう。そもそも芸大を卒業してポップ・ミュージックに向かう人間がどれだけいるのだろうか。
 というわけで、参考資料としてはなかなかに面白かった。ファンの方は是非。でも買うまでもないので図書館で読む程度で充分だろう。ちなみにわたしは30分弱で読みきった。

 今回は以上です。