「波長と符合」の巻

 今回のテーマはイシバシハザマである。トータルテンボスはその語彙、語法という点においてシニカルな側面を持っていたが、イシバシハザマの持ち芸のひとつ「おかしな話」は構造として日本語の特徴を捉えた感触をしているのだ。
 ショートコントという演芸の形式がある。コント自体がすでに寸劇と換言できるほど短いのだが、さらにそれを短くしたタイプで、一本が秒単位なのだ。アイデアをどんどん消費していくので「笑い」という面から見ると効率的な方法には見えないのだけれど、テレビという一瞬の存在が幅を利かせるメディアを鑑みると、なるほど時代の流れに沿った形式であることが窺える。件の「おかしな話」もこれに属するわけだが、他と一線を画しているのは、やはりその形式にあるのだ。この形式は得てして「タイトルの提示」→「ネタ本体」→「幕間のアクション」という一連の流れを反復するものだが、「おかしな話」では「ネタ本体」→「タイトルの提示(同時にここでオチの発生)」→「幕間のアクション」という構造をしている。ここに先に述べた日本語の特徴との合致がある。つまり、日本における論文の構造=帰納法と同じなのだ。
 もうひとつの符合として「最終の決定権性」がある。これは要するに述語が文章における意図の方向性のすべてを支配するという単純な性格だ。日本における演芸ではこの特徴が多用されている。例を挙げれば、エンタツアチャコのコントで、警官に道を訊くというやりとりでの「ここをまっすぐ行ってひとつめの信号を右に折れて、横断歩道を渡った先ではない」というセリフがある。これは「強張りのつまずき」という笑いの基本的発生源を踏襲し、かつ、日本語の特性に沿っているのだ。「おかしな話」ではネタ本体の後にタイトルを提示する点がこの「最終の決定権性」に似ている。
 笑いの第一目標はわかりやすさである。もっと言えば共通性である。予定調和である。帰納法という構造、そして最後の提示する納得という二つの点において、イシバシハザマの「おかしな話」は日本語の演芸として実に了解できる形式なのだ。ゆえに普遍的であるが、しかし、特殊であらねばならないのも事実である。笑いとは意外性によって発生するからだ。

 今回は以上です。