「価値と値段」の巻

 大学という教育機関に身を置いて驚いたことのひとつが、教科書を後輩に売り払う、という伝統的アクションである。これを見て真っ先に勿体無いという印象がわたしの脳裏に登場する。当然これは低所得者層民特有の真に身勝手な倹約精神、言い換えれば貧乏根性の引き起こす最も典型的な心情だろう。今回はこれに、論理的、普遍的価値を付加してみたい。要するに、自身の意地汚さに何らかの粉飾を施し、張りぼての志を建設せんとする。
 ここに高校時代に使用していた現代文の教科書がある。確か二年次に使用していたものだったと思うが、ざっと目次を見ただけでもその水準が窺える。例えば「社会と自由」という項目には丸山真男「『である』ことと『する』こと」(岩波新書『日本の思想』所収)が収められているし、小説には鴎外「舞姫」や中島敦山月記」、詩には中原中也「汚れっちまった悲しみに……」など、文学史をかじっている学生諸君なら題名くらいは見たことあるだろうものがある程度まとまっているのだ。これを手放すのは正直、さほど惜しいとは思わない。図書館で読める程度のものだし、ほとんどが抜粋しているものだからである。
 大学で使用していたテキストで「影印本『西鶴名残の友』」がある。これは必要に駆られない今でも読み返している。まず第一に変体仮名を読むことが目標である。しかし、それ以上に読んでいて面白い。当然歌枕や監視の予備知識などがあると知識人ぶって優越感を抱きつつ(こと『笑える』ということに関して)読めるのだろうが、生憎わたしは文学に足の小指をつけた程度である。しかし、それでも構図や登場人物の言動が面白い。中にはドリフのコントみたいな設定もあって、構成作家が参考したのではないかという考えすら脳裏を過ぎるのだ。担当教員に少なからぬ憧憬と懸想とを抱いていたこともあって、それなりに思い入れのある本である。
 浪人時代に得た本もやはりわたしにとって貴重である。中でも予備校の用意したテキスト類は「知識」という点において効率よくまとめられており、たまに開いて英文法や日本史の知識を確認することもあるのだ。現代文の文章を読み返すと、大学に所属した後に読んだ本より多少レヴェルは下がるものの、当時とは違った視点(おそらく緊張感を解いた状態で読んでいるからだろうが)で読めてなかなかに興味深いものである。
 というわけで、わたしは教科書から値段以上のものを引き出そうとしてなかなか手放せないのだ。大体、一年次に購入したからといってすべて読みきれるわけでもないし、後々の参考資料としても大いに役立つことは拾い読みするだけでも充分に窺えるからである。