「その裏に」の巻

 映画「レーシング・ストライプス」を観た。シマウマが競走馬になるという物語で、それまでの紆余曲折があっていわゆる感動モノのラストが待ち受けているというありがちな作品だった。ここでひとつの疑問が浮かんだ。これは動物を扱う映画に得てして現れる現象なのだが、この映画でもご他聞に漏れず動物が人間の言葉を喋る。実に奇妙な話である。シマウマのみならずポニー、ヤギ、ニワトリやハエといった連中がみな同じ英語を喋っているのだ。英語がどうとかではなく、馬には馬、鳥には鳥の言語があって然るべきではないか。さらにこの映画の配給会社がディズニーでなかったのも驚きだ。動物に言葉を喋らせるというのは言わずと知れたディズニーのお家芸だからである。要するに、欧米の映画では、一般に、動物はみな共通語を持ちえるということである。この発想はどこから来るのか。
 ここでも神話との連関をわたしは思い起こさずにはいられない。つまり「バベルの塔」である。なぜ言葉が存在するのかを明確に表現した話だ。言葉とは神罰であり、障害である。コミュニケーション・ギャップという現在でもなお、わたしたちが置かれている状況を生じさせることによって、神は人間の傲慢な行いを差し止めたのだ。ではそのとき、人間以外の生物はどうなったのか。ここが本題であり、同時に理由でもある。おそらく彼らは人間のような自惚れを持ち合わせていなかったがために、共通のコミュニケーション・ツールを保持したのではないか。その反映がディズニーや他の映画に見られる「人間以外の生物は共通の言葉で話す」という概念に繋がったのだ。これは別にフィクションな話ではない。というのも、我が家には犬と猫とが同居していた時期があったのだが、彼らもまた、あたかも共通言語を用いて意思疎通をしているかのようにわたしには見えたのである。よりオカルトな方面へ話を進めれば、人間の聴覚だけには感知できない、何らかの言葉が確かに今でも存在して、それでもって彼らは「会話」しているのかもしれない。そして、もしこの神罰が無ければ、ペットを道端に捨てたり野良猫をナイフで切り裂いて遊んだりということもなかっただろう。つくづく人間とは罪深い生物だと思わずにはいられない。

 今回は以上です。