「恋というもの」の巻

 以下の和歌を内容を踏まえて現代語訳せよ。

ひとを思ふ心はわれにあらねばや身のまどふだに知られざるらむ

 これは実は先日のある講義において取り上げられたもので、ひとりの学生が以下のような現代語訳をしてくれた。


「誰かを想う心がわたしには無いので、わたしの不審な振る舞いさえも世間には知られることがないのだろう」


 中学生から出直していただきたい。少なくとも国文学科にいる人間の訳ではない。とりあえず基礎中の基礎的な文法事項、つまり「ばや」「だに」「らむ」が出来ているので中学生レヴェルには達していることを評価しておく。が、あとは何というかろくに文学に触れてこなかったのが露呈している文だ。そもそもその学生氏は歌を以下のような区切りで朗読したのだ。


「ひとを思ふ心は われにあらねばや 身のまどふだに 知られざるらむ」


 ここをもって中学生未満としようか。つまり和歌三十一文字の句切りがまったく理解できていないのである。正直、後の説明もアホらしくなって聞こうとも思わなかったのだが、上の訳が登場したのでつい聴き入ってしまったというわけだ。
 現代語訳に場を戻そう。確認してみてわかったことだが、どうやら恐れを知らぬ学生氏は新日本古典文学大系の訳に自身なりの色づけ(と表現するのすらおこがましいほど陳腐な小手先)をして以上のような文を作り上げたようだ。このような権威ある参考書にどれだけの間違いが潜んでいるかをご存じない我らが学生氏はその純粋さゆえに本を信じきってしまったに違いない。
 わたしなりの訳を挙げる前にひとつひとつ片付けていこう。まず「古今集」巻十一ということは恋歌である。したがって「人」は紛れもなく「恋人」もしくは「想い人」でしかない。ここで反論があるならそれは貫之を冒涜するのと同義であることを述べておく。「恋」というテーマがあるのだから、下の二句の「られ」は「可能」用法として自身を主体にし、「自らの奇妙な行動さえもわからないのだろう」としたい。
 さて、ここからが本題なのだが、「思ふ」をどう捉えるかである。大抵の人は「心」にひかれて連体形とするかもしれない。しかし、ここで終止形としたらどうか。「ひとを思ふ」で一旦文を閉じ、「心はわれにあらねばや」の間に『だから』という接続詞を補って訳すのだ。何もこれは推定のみによる分析ではない。拠点としたいのは先にも述べた「句切れ」である。ここを件の学生(と表記するのは耐えがたい苦痛だが)氏は看過してしまったがゆえに、複雑怪奇な朗読を行ったのだろう。今でこそこの歌は「文」としてしか現存しないが、誕生した瞬間には確実に節があり、それが句切れごとに詠まれたはずなのだ。上代特殊仮名遣いに「ふ」は含まれないので、甲乙の別によって終止か連体かを云々するのは不可能だ。よしんば原典にあたって別が明確になったところで、そもそも詠み人知らずの作品なので歌そのものに確証がない。ならば、より納得のいく、かつ乙な現代語訳を当てるべきだろう。長くなったが、以下にわたしの考えた現代語訳を示す。


 「あの人を想う。だから心(=本意)が自分のところにないのだろう。そして自らの怪しい振る舞いに自分でさえも気付かないのかもしれない。」


 ちなみにここにある新古典文学大系「古今和歌集」に載っている訳を下に転記する。どちらにより納得がいくか確かめていただきたい。


 「人を思う『心』というものはわたくし自身ではないので、そのわが身が迷い乱れることさえも分らないでいるのでしょうか。」


 要はセンスの問題である。件の学生氏は単にわたしより恋歌に関するセンスが養われていなかったというまったく矮小な個人間の差異にすぎない。