「交歓」の巻

 本日は18歳以上推奨。おこさまはぺーじをとじてください。

 第39回新潮新人賞受賞作「冷たい水の羊」を読む。何だか「殺し屋1」を思い出した。つまり、SMというのは行為そのものではなく責めと受けとの精神的相互理解があって成り立つもので、しかもそれが無意識レヴェルに近いほど快感が増幅されるということだ。要するにテレビを見ているときに、ふとブラウン管の枠が目に入ると興醒めするのと一緒で、徹底的に状況が分割されていて当事者同士にはその分割が把握できていないからこそ愉悦を覚えるのだ。「殺し屋1」で垣原が「SMは自分にとっては生活」と言うのもこの点が答えとなるだろう。さて、「状況の分割」と書いたが、SMの上下関係は非常に定義しづらい。行為そのものを見ればS側がM側を蹂躙しているように感じられるが、羞恥あるいは痛みが快感となるならばマゾヒストに対してサディストが奉仕している構図ともとれるわけである。いずれにせよ上下関係は確かに存在するのだが。ちなみに稀に強姦とSMとを一緒くたにしてしまう人がいるが、おそらくこの辺りの認識が一般的には弱いからだろう。要するに相互理解があるか否かということだ。どちらも快感に浸れることが第一条件なのである。肉体的官能よりも精神的感応である。
 さて、内容を交えた話に移ろう。いじめられっ子の中学生、大橋真夫が「いじめられている」という認識を自身で打ち消すことによって「いじめ」の消滅を図るという物語だ。行為は常に受け取る側の価値判断がすべてである。「よかれと思って」などというのはお節介者の言い訳に過ぎない。そんな真夫に水原里子が「お節介者」たる役割を果たす。つまり、担任への告げ口である。真夫は彼女自身から「いじめ」の存在を認識させられるも、自らの論理を堅牢なものにしようとする。そこにあるのはいじめっ子である北上(彼は先にも述べた無意識的なサディスト的喜びへの自覚がある)との行為であり、「いじめ」という抽象概念に囚われるものではないからだ。というより、感情などの不純物が入り込んでは彼の論理は成立しない。そして行為のエスカレートはより不純物を自動的に取り除いてくれる。ここで、神坂という女生徒が登場する。北上によるいじめの現場に居合わせたひとりで、参加者だ。肛門にモップの柄を突っ込むという成人でも好悪の分かれるだろうプレイをやり遂げた人物である(ところで、前立腺への刺激があるから男性へのアナルセックスは理解できるが、女性へのそれであるフィストファックはどこに必然性があるのだろう?)。彼女に当然、知識はない。ゆえに行為は快感を引き出すためのものではなく、ただ存在するものだ。終盤で真夫の中の「救い」のイメージに神坂が登場するのも納得のいく話である。彼女は無邪気であるがゆえの徹底性によって「いじめ」の概念を塗りつぶしてくれる存在なのだ。SMの真髄はそこにある。必要なのは痛みや悦楽を与える側と与えられる側という関係であって、思いやりや嗜虐心などは門外の存在だ。結果として顕れる分には構わないが、まず行為が先行すること(=無意識であること)が肝要なのである。この小説の問題点は行為のエスカレートがなぜ「いじめ」の消滅につながるかという明確な説明がなかったことであろう。その効果のメカニズムは受容できるが、以前に必要な論理が欠落しているのだ。これも新人であるがゆえだろうか。まあまあ面白かった。というのは、ここまでわたしが色々と書けるだけの影響を与えてくれたからである。

 今回は以上です。