「さよなら」の巻

 ミヤコワスレという花がある。別名、「東菊」。かの順徳院が佐渡にて、都への想いを少なからず癒すことが出来たことから名づけられた。花言葉はここより転じて、「別れ」「短い恋」「しばしの憩い」。見沢知廉の遺作「愛情省」を読んだ。
 愛情省とは、国家による「罪人」に体罰を施すことなく更正させるという「愛」によって作り上げられた機関の総称、もしくはそれらを総体的に指す呼称である。逆を言えば、体罰以外のあらゆる「もの」を駆使した作業が行われるわけだ。そして、それは公的事業であるからして常に合法である。では体罰とはイコール肉体的拷問ではない。単にその一部に過ぎない。他の一部を挙げるとすれば投獄がある。殊に懲罰房はその究極で、ひたすらな孤独と単調な作業しかそこにはない。このミニマルな空間は、その直な感触とは逆に精神への変調を促す。おそらくはそのリピートが久遠を感じさせるからだろう。もうひとつに投薬がある。精神鑑定の結果、異常ありと見られた囚人に「治療」を施すべく、さまざまの「特効薬」が「処方」されるのだ。彼らは「異常」なので「仕方なく」拘束衣を身に着けさせて、皮ベルトでもって寝台へ縛り付けなければならない。食事は北京ダックよろしく体内へ押し込まれる流動食と栄養剤の点滴、排便は尿道へ挿入されたカテーテルによる自動的な小用および、おむつによる垂れ流し(しかも交換は定期的で排泄するたびではない)、そして食事の後は当然「治療」のための投薬だ。こうした「患者」における何よりの苦痛はその姿を省みた瞬間にある。尿道へ管を挿され、四肢や腰を緊密に縛り付けられ、栄養剤を絶えず注入されるという状況は、果たして人間のそれでは到底あり得ない。
 しかし、見沢は更なる見解を示しているように思う。塀の外にいるわたしたちと彼らとに相違があるだろうか。各種薬品を「情報」に置き換えた場合、わたしたちの生活は彼らのそれと似てはいないか。常に動き続ける周囲に何を為すでもなく、八方からさまざまの情報を、それが何であるかも理解できることなく流し込まれ、脳の中を通過させる。残るのは「そういう情報があった」という結果だけで、それに対して何を考えるでもない。というより、考える暇もなく次の情報が注入される。こうして脳はその働きを忘れてしまう。ちょうど、縛りつけられていた囚人が久しぶりに地に足を付けたときにその足を引きずるようにしてしか前進できないように、わたしたちの脳はその機能を退化させる。肉体的であることと形而上的であることという異なりはあるものの、その状況と結果はさして変わらない。思考停止だ。それに伴う肉体の停止だ。隷属化だ。或いは、「流し込まれている」ことに気付いていない分、わたしたちの姿のほうが救いがないとさえ思える。
 わたしはこのように「愛情省」を読んだ次第である。ここをもって再び彼の冥福を祈る。そして、実践する。ミヤコワスレは実は、忘れさせてくれるものではない。その姿に再び志を想起させるものである。

 今回は以上です。