「新体制」の巻

 友原康博の詩を読んだ。ゲロ吐きそうになった。文学と身体との融合が確かにそこにある。どちらか一方による擁立ではなく、身体なくして彼の詩はあり得ず、文学なくして彼自身はあり得なかったに違いない。それは要するに天啓である。鈴木光司「リング」で浅川がビデオテープが貞子自身の脳に刻まれた記憶の切片、つまり、それを観たものは貞子の感覚と一体化するという事実に直面して嘔吐しそうになった(実際にしたのか否かは覚えていない)というシーンがあったが、わたしは目下それに猛烈な理解を示す。あらゆる感覚が詩のところどころに配置されていて、エクリチュールの作業よろしく全体像を浮かび上がらせている。つまり友原の感覚とわたしの感覚がクロスオーヴァーする。というより精神が侵蝕される。文字のひとつひとつが強烈なイメージを持って脳に訴えかける。言語感覚を蹂躙してくれる。それは言外の不快感と同時に快楽をもたらす。常に痛みと悦びは表裏一体であり、どちらかが先行してどちらかが後からやってくる。契機はこの際どちらでもよい。問題はそのフェイズが移行する瞬間のグレイ・ゾーンだ。このジェル状の領域は心神と肉体との狭間に似た感覚である。微妙な空間。かつてわたしは微妙な空間とは芸術によってのみ与えられる、つまり言葉として明確に表現できない何かを伝えるしかないと考えていた。それが言語によっても可能であったとは、自身の浅はかさを痛感した次第である。友原の詩はその容赦なさによって読む人間のこころを侵して揺さぶりをかける。それは同時に詩の神髄ではないか。とりあえず一読を薦める。