「ことばについて」の巻

 昨今のテレビ番組ではとかくに「正しい日本語」を取り扱うタイプを目にする。バイトの休憩時間に「タモリのジャポニカロゴス」を観ていて、「申し訳ありません」が誤用であるとされていた。これは「申し訳ない」が分割不能な一単語であるがゆえであり、正しくは「申し訳なく存じます」がよろしいのだそうだ。
 日本文学を専門にしている人間として、このようなムーヴメントは非常に厄介である。ある側面では実に真っ当であり、またある側面では大きな誤謬を犯しているからだ。つまり正面から非難できないのである。ならば裏口から行うより致し方あるまい。その裏口とは辞書が消耗品であるということだ。これらのテレビ番組で取り上げられている事象について正解とされているもの、もしくはその基準は専門家の知識及び辞書の内容である。専門化の知識とは総じて書籍の内容とほぼ合致するので要するに正解は須らく書籍の記録である。記録とはすべて過去だ。辞書が消耗品である、というのもここによる。対して扱われている「言葉」は流動的で非定型だ。常にその姿を変容している存在が言葉である。ここにおいて、記録に何の正当性があろうか。あったところで実に希薄であるに違いない。蠢く姿の一瞬をかろうじてスナップに収めたにすぎないがゆえである。つまり、「申し訳ありません」が誤用であると決定するのは言語的見地から鑑みれば笑止千万であり、言葉の根本的正確を把握していない人間の意見なのだ。
 普遍というのは存在しない。もしそれらしきものを感じたならば、それは単なる長期の特殊である。その一瞬を知っていたからといって自身の知識の存在を示すのは愚の骨頂だ。むしろ無常であることを視座に据えて、ある瞬間瞬間の姿を的確に捉え、比較検討することがあるべき姿ではないか。それは畢竟「研究」ということである。学者の第一義的アクションだ。言葉において、唯一正しい認識があるとすれば、それが非定型であることを忘れないという心構えだろう。時間や空間などによって、言葉はいくらでも変貌する。その変貌の瞬間を見逃してはならない。それは歴史的な出来事だからだ。それが研究と同じかそれ以上に重要な「観察」という行動である。
 結局、「正しい日本語」なんてものは幻想でしかないのだ。必要なのは今この瞬間における姿を掴んでおくことである。それさえこなせれば、言葉は自在に操れよう。

 今回は以上です。