「説教」の巻

 昨日の話。外へ出ると幼稚園児だか小学生だかの群れがわーっとキャンパスに広がっていた。一人が駆け寄ってある学生に向かって「なにけんしゅっしんですか?」と訊いていた。ぶん殴ってやろうかと思った。少なくとも軽く説教はたれることだろう。彼らはいわばモノを知らない若人予備軍である。その芽を摘み取らなければならない。人にものを訊くときには自身を名乗り、尋ねる理由を示す必要がある。そのうえで質問を行う、という段階を彼らが全く放棄していることに腹が立った。しかし、それ以上に管理者である担任に憤りを覚えた。彼らはいったい何をしているのだろう。教育機関においてそのような杜撰な指導が垣間見える授業をしているとはお笑いである。
 これは彼らのみに言えることではないが、世の「大人」たちは畢竟子供を「子供扱い」している。言ったってわからないだろうと初めから諦めた上で指導を行っているのだ。当然子供たちはろくな指導を為されずに社会へ赴く。素養も思考もない人間ブロイラーの完成である。徴兵制は目前だ。さて具体例に視点を戻すとおそらく彼らは「なにけんしゅっしんですか?」という質問さえすればよろしいと指導されたに違いない。彼らがしっかり筋道を立てた論理を持ち出されたところで簡略化するまでの能力は持ち合わせてはいないと思われるからだ。簡素化、簡略化は経験によって培われる。さまざまに物事を経験し、慣れていくことでのみ身に着けていく能力である。そうでない未熟な存在はマニュアルをすべからくこなすことしか出来ないが、それでも別に構わない。別段失礼なことではないからだ。時間はかかるだろうけれども決して失敗はしないだろう。ここにおいて「なにけんしゅっしんですか?」という彼の質問は与えられたマニュアルの全体であることが導かれる。そのように簡素化された手段のみを教えられ、その前にある多くの過程を飛ばしてしまう教育にわたしは価値を見出すことができない。しかし、これは紛れもなく現実に存在する教育の姿である。つまり、「素養のない人間」のファーストステップを目の当たりにしたわけだ。ぞっとした。