「We were born to run」の巻

 金原ひとみ蛇にピアス」読了。読もう読もうと思ってすっかり忘れていた。全体的に谷崎「刺青」の匂いがする。あれも結局SMの話であり、主人公がSからMへ移る様が一応の全体を為している。さて「蛇にピアス」であるが、「刺青」に川端「水月」を足して現在の空気を流し込んで固めてハル・ベリー主演の「チョコレート」で香り付けしたといった感じだ。端的に言えばキマイラで、良く言えば現代らしい小説である。終盤での急展開も紋切り型だ。ただ、真相を曖昧にしてしまうのはなかなかに乙であり、違和感を引きずって(しかもそれは読者のみに与えられた感触だ)消えていくストーリーは実に宜しい。それは丁度「眼」を入れずにいた麒麟と龍のようだ。このあたりも計算していたのだろうか。だとしたら立派な文才である。
 人体改造に関して、わたしは多少の予備知識がある(体験はない)ので序盤だけ読んで退くことはなかったが、「直木賞」という名目でもって触れた人には受けないだろうと思う。ところで、こうした改造は要するに誰しもが持っている変身・超人願望である。これが健全な方へ向かうとミュージシャンやアスリートになる。幼稚になると中山唯生である。では人体改造はというとこれは「怠惰」にあたる。手っ取り早く「超人」になるには化粧と服飾とがあるが、それでは飽き足らず、しかし、鍛錬を積む気力は起きない。また、ピアッシングやタトゥにおける肉体の痛みは「頑張ってる」という錯覚を与えてくれる。実に頽廃的=現代的だ。かくいうわたしもワンポイントくらいなら入れてもいいかなと思ったが、公衆浴場に入れなくなりそうなので止めた。
 以前SMは行為をする者の自覚と悦びが反比例するとしたが、どうやらそうでもないらしい。自らがサディストであると確認したうえでのエクスタシーがあるようだ。これも結局変身願望のカテゴリにあり、「自分は逸脱している」という認識が愉しいのだろう。しかし、性癖とは須らく逸脱でもなんでもない。ここを無視することによってこの快楽は成り立つ。やはり「入り込む」ことが重要だ。
 主人公は生きることにした。わたしは、要するにうんざりしたのだと解釈する。どうも前向きな視線は窺えないし「一応生きてる」感が漂っているからだ。そんな彼女がポジティヴになったらそれこそ昭和の三流ドラマである。話の全体を通して、というかアマに出会ってから彼女は映画「フリークス」を日常にカスタマイズしたような日々を送っていた。そこには無気力な変身願望が溢れていて、実際に安堵と心地よさがあっただろう(その証拠に二人は素性を明かさない)。しかし、それにさえ彼女は飽きてしまったのだ。このまま自殺したらそれこそ「凡人」と同じだ、とでも思ったのだろう。単に名残惜しかっただけもしれないけれど。畢竟軽薄な人間なのだ。舞台裏を見て疲労を隠さないスタアは人に興醒めを与えるが、同時に「彼も人なり」という安心をもたらす。これは「どうせ人間なんてこんなもんだろ」という諦めに変貌するわけだが、そこには裏面の優越感がある。うまく表現できないが「オトナになった」という考えだ。しかし、この優越感にすら主人公は白けている。それはつまり「一歩先の視点」である。このあたりは「トレインスポッティング」に近いかもしれない。
 確かに面白かった。しかし、図書館で借りる程度で充分だろう。