「あなたのための全体主義」の巻

 結婚記念日のケーキを前金で支払ったばかりだというのに、本屋で「国民クイズ」を見つけたので衝動買いした。復刊していたのか、と思って版元を見たら太田出版だった。予想は何となくしていたけど、相変わらずいい仕事をしてくれる。思い返せば「ゴールデンラッキー」も「天才柳沢教授の生活」も、そしてこの「国民クイズ」もみな週刊コミックモーニングが初出であり、雑誌は違えど「セラフィックフェザー」「寄生獣」も同じ系列である。意外と多かった。
 さて「国民クイズ」だが、日本人が日本をパロディに扱うとやはり全体主義やファッショに繋がるのだなとつくづく感じる。例えば「バトルロワイアル」は太平洋戦争に勝利したもうひとつの日本=「大東亜共和国」を舞台にしているし、同じ漫画で挙げれば「20世紀少年」がしっくりくるだろう。しかし「国民クイズ」が擢んでているのは国民の信仰の表向きな対象が自らの欲望に向けられているという点による。総統や「ともだち」といった単一の明確なものではなく、何よりエゴイズムが先行して日本を動かしているわけである。言い換えれば、何のことはない、主体が高級官僚や資本家から一般の労働者に移っただけの話ということだ。K井K一とは触媒にすぎず、過酸化水素水が酸素を放出する際の二酸化マンガンでしかない。
 けれども、この触媒が非常に強力であった。翻って現在の日本を見てみよう。「情報はインターネットの時代」などと嘯いているが、戦後から今なお最高の情報機関はテレヴィジョンである。情報とはニュース番組で扱われているもののみを指さない。あの中から発せられるすべてが情報であり、そしてそれは強大な影響力を有する。要するにテレビに映れば何であれ大抵が真実に見えてしまうということだ。その「真実っぷり」を立ち居振る舞いで増幅させるのがK井K一なのである。彼に対する国民の支持率は90%以上、つまり真実性も90%以上ということだ。ここに勘違いが顕れる。二酸化マンガンが「必要」なのだと思い込む小学生と同じ思考回路である。国民クイズ省も政府もその思考に陥った。同時にK井自身もだ。「司会が好きになっちまった」という言葉はおそらくここから発せられたものだろう。しかし、国民は違った。彼らが信奉していたのは畢竟国民クイズそのものであり、非情なまでにリアリストだったのだ。K井が触媒でしかないのも意識的にせよ無意識的にせよ確信していたのである。日本はK井を利用していたつもりが結果的に利用されたが、国民は実に「賢明」であったということだ。ここにわたしはひとつの結論を見出す。つまり、あのラストシーンは国民の不可侵性を描いたものではなかったか。国民クイズ省もK井もすべては国民の前に立ちはだかれなかった。極論を言えば常に社会はアナーキーだということだろう。
 さて、現実へ立ち返ると国民は政府に管理されているようだ。「国民クイズ」を参照すれば、この現状がどういうことか理解されるだろう。つまり、現政府の手腕がいかに手の込んだ緻密なものであるかということだ。それは戦慄すら覚える見事さである。

 今回は以上です。